エピローグ
その後のことを少しだけ語ろう。
ハルヒはその昼にはあっさり髪をほどいて元のストレートヘアに戻してしまった。飽きたのだろう。また髪が伸びた頃に、遠回しに薦めてみようと思っている。
古泉とはトイレ行った帰りの休み時間に廊下で出会った。
「あなたには感謝すべきなんでしょうね」
無駄に爽やかな笑顔で言う。
「世界は何も変わらず、涼宮さんもここにいる。僕のアルバイトもしばらく終わりそうにありません。いやいや、本当にあなたはよくやってくれましたよ。皮肉じゃありませんよ? まあ、この世界が昨日の晩に出来たばかりという可能性も否定できないわけですが。とにかく、あなたと涼宮さんにまた会えて、光栄です」
長い付き合いになるかもしれませんね、と言いつつ、古泉は俺に手を振った。
「また、放課後に」
昼休みに顔を出した文芸部部室では、長門がいつもの情景で本を読んでいた。
「あなたと涼宮ハルヒは二時間三十分、この世界から消えていた」
第一声がそれである。そしてそれだけだった。素知らぬ顔で文字を黙読し続ける長門に、
「貸してくれた本な、今読んでるんだ。後一週間もしたら返せると思う」
「そう」
視線を合わさないのはいつものことだ。
「教えてくれ。お前みたいな奴は、お前の他にどれだけ地球にいるんだ?」
「けっこう」
「なあ、また朝倉みたいなのに俺は襲われたりするのかな」
「だいじょうぶ」
この時だけ長門は顔を上げ、俺を見つめた。
「あたしがさせない」
図書館の話はしないことにした。
放課後の部室にいた朝比奈さんは珍しくメイド服を着ておらずセーラー服姿で、俺を目にするや全身でぶつかってきた。
「よかった、また会えて......」
俺の胸に顔を埋めて朝比奈さんは涙声で、
「もう二度と......(ぐしゅ)こっちに、も、(ぐしゅ)戻ってこないかと、思、」
背中に手を回そうとした俺の動きを感じたのか、朝比奈さんは両手を俺の胸に当てて突っ張った。
「だめ、だめです。こんなとこ涼宮さんに見られたら、また同じ穴の二の舞です」
「意味解らないですよ、それ」
涙を溜めた大きな瞳が可憐を通り越している。思わず人生をやり直したくなるような、この素直な瞳に参らない男はいまい。
「今日はメイド服は着ないんですか」
「お洗濯中です」
そのとき思いついた。俺は自分の心臓の上を指して、
「そう言えば朝比奈さん、胸のここんとこに星型のホクロがありますよね」
目尻を指で拭っていた朝比奈さんは、目の前で散弾銃をぶっ放された旅行鳩みたいな顔になり、くるりと背を向けて、襟ぐりを広げて胸元を覗き込み、面白いようにみるみる耳を赤く染めた。
「どっ! どうして知ってるんですか! あたしも今まで星の形なんて気付かなかったのにっ! いいいいいつ見たんですか!」
首まで赤くして朝比奈さんは幼児のように両手で俺をぽかすか殴りつける。
もっと未来のあなたが教えてくれました。正直に言ったほうがいいのだろうか。
「なにやってんの、あんたら?」
戸口のハルヒが呆れたように言った。握り拳を停止させた朝比奈さんがまた顔面蒼白になる。しかしハルヒは、義理の娘は毒リンゴを齧って死にましたと報告を受けた継母のようなニマニマ笑いを顔中で表現しながら、提げていた紙袋を持ち上げた。
「みくるちゃん、メイド服もそろそろ飽きたでしょう。さあ、着替えの時間よ」
古流武術の達人さながら、一瞬にして間合いを詰めたハルヒはいともやすやすと硬直中の朝比奈さんを取り押さえ、
「いっ、きゃ、なっ、やっ、やめ」
悲鳴を上げる朝比奈さんの制服を脱がせにかかるのだった。
「暴れないの。抵抗は無駄よ。今度のはナースよナース、看護婦さん。最近は看護師って言うんだっけ? まあいいや。同じことだし」
「せめてドアは閉じてぇ!」
ものすごく見物していたかったが、俺は失礼して部室を辞し、扉を閉めて合掌した。
朝比奈さんには悪いが、扉を開ける時が実に楽しみだ。
ああ、長門なら最初から最後までテーブルで本読んでた。
さて長らく棚上げしていたSOS団設立に伴う書類申請だが、このたび俺はようやくそれらしい文書をでっちあげて生徒会に提出してやった。「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」では賄賂でも包まない限り却下されること確実と思われたので、「生徒社会を応援する世界造りのための奉仕団体(同好会)」(略称・SOS団)と独断で改名し、活動内容も「学園生活での生徒の悩み相談、コンサルティング業務、地域奉仕活動への積極参加」ということにした。言葉の意味なんか俺にだって解りはしないが、首尾良く申請を受け付けられたら悩み相談募集のポスターでも掲示板に貼り付けようかと思う。俺たちに相談してどうなるもんでもないような気もするけどな。
一方で、ハルヒ指揮のもと、市内の「不思議探索パトロール」も鋭意継続中で、本日は記念すべきその第二回目である。例によってせっかくの休みを一日潰してあてどもなくそこいらをウロウロするという企画なのだが、どういう偶然だろう、朝比奈さんと長門と古泉が直前になって行けなくなった、どうしても外せない重要な用事が出来て、と言い出し、というわけで俺は今、駅の改札口で一人、ハルヒを待っている。
三人が何か気をきかせたつもりでいるのか、それとも本当に急用が出来たのかは解らないが、それぞれ常人ばなれしている三人のことだから、また俺たちの知らないところで妙な事態になっててその対応に追われている気がしないでもない。
俺は腕時計に目をやった。集合時間まであと三十分もある。俺がここに突っ立ってからすでに三十分が経過してて、つまり俺は待ち合わせの一時間前にここに到着したのであって、これは別段はやる心を抑えかねてというわけではなく、遅刻の有無にかかわらず最後に来た者は罰金という定めがSOS団にあるからであり他意はない。なんせ参加人数二人だからな。
時計から目を上げると、すぐに遠くから歩いてくる見覚えのある私服姿が目に入った。よもや三十分前に来たのに俺がもう待っているとは思わなかったのか、ぎくりとしたように立ち止まり、また憤然と歩き始める。眉根を寄せるしかめっ面のゆえんが参加率の低さを嘆いたものか、俺に後れを取った不覚を嘆いたものなのかは解らない。後でゆっくり聞いてやろう。ハルヒの奢りの喫茶店で。
その際に俺は色々なことを話してやりたいと思う。SOS団の今後の活動方針について、朝比奈さんへのコスプレ衣装の希望、クラスでは俺以外の奴とも会話してやれ、フロイトの夢判断をどう思うか、などなど。
しかしまあ、結局のところ。
最初に話すことは決まっているのだ。
そう、まず----。
宇宙人と未来人と超能力者について話してやろうと俺は思っている。
あとがき
なんとなくですが、一人の人間が一生涯で書くことのできる文章量は、その人が生れ落ちた瞬間にすでに決定されているのではないかと思うことがあります。あらかじめ規定の文字数があるのだとすると、書けば書くほど目減りしていくわけなので、そうするとどんどん書くことがなくなっていく計算になりますが、実際問題として一日で四百字詰め原稿用紙換算三百枚くらい書いてしまおうと思っても書けたためしがないので案外正解なのかもしれません。もっとも一日で十二万字も書こうとしたら一秒で一文字をタイプしたとしても約三十三時間かかるため、そんなんできっこないのですが、どこかでやり遂げている人がいるかもしれないので確証を得ることができません。
できないと言えば、この前振りから話題を膨らませることもできないのですが、それはいったん脇に置いておいて別の話に移行すると、猫は良い生き物です。可愛いしグンニャリしているしニャーと鳴きます。だからどうしたんだと思われても困るのですが、僕自身が困っているのでそのあたりはいいわけのしようもなく、「そのようなものである」と思っていただければ幸いです。
ところで、この本は畏れ多くも有り難くもスニーカー大賞を授与された結果としてこの世に出ていると思うのですが、受賞した旨の連絡をいただいたとき、僕はまず自分の耳を疑い次に頭を疑い受話器を疑い現実を疑い地球が自転しているという事実を疑い始めて、ようやく「どうやら本当のことらしい」と思い当たり、意味もなく猫を振り回してみたりもして噛《か》みつかれ、手の甲に残った歯形を眺めながら、もし人間が持っている運があらかじめ決定されているのならが、この時点ですべての幸運を使い果たしているに違いないと考えたところまでは覚えていますが、なにぶん、あまりの精神的衝撃により部分的な記憶の欠如が見られますので自分でも確かなことが言えません。いろいろあったような気がします。
そのようなわけで、この本が出るにあたっての作業工程過程決定にたずさわれた方々の苦労は書いた本人のそれをさらに二乗した以上のものだと思われます。現在私が感じている感謝の念を言語化しようとしても日本語にその感謝規模を表現できる語彙は存在しないくらいの途方もなさです。特に選考委員の方々には何とお礼申し上げればいいものか解らず、新しい形容詞を考案している最中なのですが、たぶんそんな自作言語で何か言われても意味不明となって終了するであろうことも容易に想像できます。とにかく有り難いことです。有り難うございました。心底から、そう思います。
今ここに私は、なんとかスタート地点に立たせてもらったばかりの上に号砲と同時にコケるかもしれずゴールがどっちでどこらへんにあるのか、ひょっとしたら給水ポイントすらない道を走り出してしまったのかもしれませんが、迷走しつつも走り続けることができたらよいなとしみじみと思います。そんな他人事みたいに思っている場合でもないのですが。
最後に、この本の製造制作出版に際し直接的間接的有形無形のかかわりを持っていただいた方々全員と、読んでいただけた方々全員に無限の感謝をささげつつ、今回はこれにて失礼いたします。
谷川 流