第一章
うすらぼんやりとしているうちに学区内の県立高校へと無難に進学した俺が最初に後悔したのはこの学校がえらい山の上にあることで、春だってのに大汗をかきながら延々と続く坂道を登りつつ気軽なハイキング気分をいやいや満喫している最中であった。これから三年間も毎日こんな山登りを朝っぱらからせにゃならんのかと思うと暗澹たる気分になるのだが、ひょっとしたらギリギリまで寝ていたおかげで自然と足早を強いられているのかもしれず、ならばあと十分でも早起きすればゆっくり歩けるわけだしそうキツイことでもないかと考えたりするものの、起きる間際の十分の睡眠がどれほど貴重かを思えば、そんなことは不可能で、つまり結局俺は朝の運動を継続しなければならないだろうと確信し暗澹たる気分が倍加した。
そんなわけで、無駄に広い体育館で入学式がおこなわれている間、俺は新しい学び舎での希望と不安に満ちた学園生活に思いをはせている新入生特有の顔つきとは関係なく、ただ暗い顔をしていた。同じ中学から来ている奴がかなりの量にのぼっていたし、うち何人かはけっこう仲のよかった連中なので友人のあてに困ることはなかったが。
男はブレザーなのに女はセーラー服ってのは変な組み合わせだな、もしかして今壇上で眠気を誘う音波を長々と発しているヅラ校長がセーラー服マニアなのか、とか考えているあいだにテンプレートでダルダルな入学式がつつがなく終了し、俺は配属された一年五組の教室へ嫌でも一年間は面を突き合わせねばならないクラスメイトたちとぞろぞろ入った。
担任の岡部なる若い青年教師は教壇に上がるや鏡の前で小一時間練習したような明朗快活な笑顔を俺たちに向け、自分が体育教師であること、ハンドボール部の顧問をしていること、大学時代にハンドボール部で活躍しリーグ戦ではそこそこいいところまで勝ちあがったこと、現在この高校のハンドボール部は部員が少ないので入部即レギュラーは保障されたも同然であること、ハンドボール以上に面白い球技はこの世に存在しないであろうことをひとしきり喋り終えるともう話すことがなくなったらしく、
「みんなに自己紹介をしてもらおう」
と言い出した。
まあありがちな展開だし、心積もりもしてあったから驚くことでもない。
出席番号順に男女交互で並んでいる左端から一人一人立ち上がり、氏名、出身中学プラスα(趣味とか好きな食べ物とか)をあるいはぼそぼそと、あるいは調子よく、あるいはダダ滑りするギャグを交えて教室の温度を下げながら、だんだんと俺の番が近づいてきた。緊張の一瞬である。解るだろ?
頭でひねっていた最低限のセリフを何とか噛《か》まずに言い終え、やるべきことをやったという開放感に包まれながら俺は着席した。替わりに後ろの奴が立ち上がり----ああ、俺は生涯このことを忘れないだろうな----後々語り草となる言葉をのたまった。
「東中学出身、涼宮ハルヒ」
ここまでは普通だった。真後ろの席を身体をよじって見るのもおっくうなので俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
さすがに振り向いたね。
長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。
ハルヒの白い喉がやけにまばゆかったのを覚えている。えらい美人がそこにいた。
ハルヒは喧嘩でも売るような目つきでゆっくりと教室中を見渡し、最後に大口開けて見上げている俺をじろりと睨むと、にこりともせずに着席した。
これってギャグなの?
おそらく全員の頭にどういうリアクションをとればいいのか、疑問符が浮かんでいたことだろう。「ここ、笑うとこ?」
結果から言うと、それはギャグでも笑いどころでもなかった。涼宮ハルヒは、いつだろうがどこだろうが冗談などは言わない。
常に大マジなのだ。
のちに身をもってそのことを知った俺が言うんだから間違いはない。
沈黙の妖精が三十秒ほど教室を飛び回り、やがて体育教師岡部がためらいながら次の生徒を指名して、白くなっていた空気はようやく正常化した。
こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。
このように一瞬にしてクラス全員のハートをいろんな意味でキャッチした涼宮ハルヒだが、翌日以降しばらくは割とおとなしく一見無害な女子高生を演じていた。
嵐の前の静けさ、という言葉の意味が今の俺にはよく解る。
いや、この高校に来るのは、もともと市内の四つの中学出身の生徒たち(成績が普通レベルの奴ら)ばかりだし、東中もその中に入っていたから、涼宮ハルヒと同じ中学から進学した奴らもいるわけで、そんな彼らにしてみればこいつの雌伏状態が何かの前兆であることに気付いていたんだろうが、あいにく俺は東中に知り合いがいなかったしクラスの誰も教えてくれなかったから、スットンキョーな自己紹介から数日後、忘れもしない、朝のホームルームが始まる前だ。涼宮ハルヒに話しかけるという愚の骨頂なことを俺はしでかしてしまった。
ケチのつき始めのドミノ倒し、その一枚目を俺は自分で倒しちまったというわけだ。
だってよ、涼宮ハルヒは黙ってじっと座っている限りでは一美少女高校生にしか見えないんだぜ。たまたま席が真ん前だったという地の利を生かしてお近づきになっとくのもいいかなと一瞬血迷った俺を誰が責められよう。
もちろん話題はあのことしかあるまい。
「なあ」
と、俺はさりげなく振り返りながらさりげない笑みを満面に浮かべて言った。
「しょっぱなの自己紹介のアレ、どのへんまで本気だったんだ?」
腕組みをして口をへの字に結んでいた涼宮ハルヒはそのままの姿勢でまともに俺の目を凝視した。
「自己紹介のアレって何」
「いや、だから宇宙人がどうとか」
「あんた、宇宙人なの?」
大まじめな顔で訊きやがる。
「...違うけどさ」
「違うけど、何なの」
「...いや、何もない」
「だったら話かけないで。時間の無駄だから」
思わず「すいません」と謝ってしまいそうになるくらい冷徹な口調と視線だったね。涼宮ハルヒは、まるで芽キャベツを見るように俺に向けていた目をフンとばかりに逸らすと、黒板の辺りを睨みつけ始めた。
何かを言い返そうとして結局思いつかないでいた俺は担任の岡部が入ってきたおかげで救われた。
負け犬の心でしおしおと前を向くと、クラスの何人かがこっちのほうを興味深げに眺めていやがった。目が合うと実に意味深な半笑いで「やっぱりな」とでも言いたげな、そして同情するかのごときうなずきを俺によこす。
なんか、シャクに障る。後で解ったことだがそいつら全員東中だった。
とまあ、おそらくファースト・コンタクトとしては最悪の部類に入る会話のおかげで、さすがに俺も涼宮ハルヒには関わらないほうがいいのではないかと思い始めてその思いが覆らないまま一週間が経過した。
だが理解していない観察眼のない奴もまだまだいないわけではなく、いつも不機嫌そうに眉間にしわを寄せ唇をへの字にしている涼宮ハルヒに何やかんやと話かけるクラスメイトも中にはいた。
だいがいそれはおせっかいな女子であり、新学期早々クラスから孤立しつつある女子生徒を気遣って調和の輪の中に入れようとする、本人にとっては好意から出た行動なのだろうが、いかんせん相手が相手だった。
「ねえ、昨日のドラマ見た? 九時からのやつ」
「見てない」
「えー? なんでー?」
「知らない」
「いっぺん見てみなよ、あーでも途中からじゃ解んないか。そうそう、だったら教えてあげようか、今までのあらすじ」
「うるさい」
こんな感じ。
無表情に応答するならまだしも、あからさまにイライラした顔と発音で応えるものだから話かけた人間の方が何か悪いことをしているような気分になり、結局「......まあ、その......」と肩を落としてすごすご引き下がることになる。「わたし、何かおかしな事言った?」
安心したまえ、言ってない。おかしいのは涼宮ハルヒの頭のほうさ。
別段一人で飯喰うのは苦にならないものの、やはり皆がわやわや言いながらテーブルをくっつけているところにポツンと取り残されるように弁当をつついているというのも何なので、というわけでもないのだが、昼休みになると俺は中学が同じで比較的仲のよかった国木田と、たまたま席が近かった東中出身の谷口という奴と机を同じくすることにしていた。
涼宮ハルヒの話題が出たのはその時である。
「お前、この前涼宮に話かけてたな」
何気にそんな事を言い出す谷口。まあ、うなずいとこう。
「わけの解らんこと言われて追い返されただろ」
その通りだ。
谷口はゆで卵の輪切りを口に放り込み、もぐもぐしながら、
「もしあいつに気があるんなら、悪いことは言わん、やめとけ。涼宮が変人だってのは充分理解したろ」
中学で涼宮と三年間同じクラスだったからよく知ってるんだがな、と前置きし、
「あいつの奇人ぶりは常軌を逸している。高校生にもなったら少しは落ち着くかと思ったんだが全然変ってないな。聞いたろ、あの自己紹介」
「あの宇宙人がどうとか言うやつ?」
焼き魚の切り身から小骨を細心の注意で取り除いていた国木田が口を挟んだ。
「そ。中学時代にもわけの解らんことを言いながらわけの解らんことを散々やり倒していたな。有名なのが校庭落書き事件」
「何だそりゃ?」
「石灰で白線引く道具があるだろ。あれ何つうんだっけ? まあいいや、とにかくそれで校庭にデカデカとけったいな絵文字を書きやがったことがある。しかも夜中に学校に忍び込んで」
そん時のことを思い出したのか谷口はニヤニヤ笑いを浮かべた。
「驚くなよ。朝学校来たらグラウンドに巨大な丸とか三角とかが一面に書きなぐってあるんだぜ。近くで見ても何が書いてあんのか解らんからためしに校舎の四階から見てみたんだが、やっぱり何が書いてあるのか解んなかったな」
「あ、それ見た覚えあるな。確か新聞の地方欄に載ってなかった? 航空写真でさ。出来そこないのナスカの地上絵みたいなの」
と国木田が言う。俺には覚えがない。
「載ってた載ってた。中学校の校庭に描かれた謎のイタズラ書き、ってな。で、こんなアホなことをした犯人は誰だってことになったんだが......」
「その犯人があいつだってわけか」
「本人がそう言ったんだから間違いない。当然、何でそんなことしたんだってなるわな。校長室にまで呼ばれてたぜ。教師総掛かりで問いつめたらしい」
「何でそんなことしたんだ?」
「知らん」
あっさり答えて谷口は白飯をもしゃもしゃと頬張った。
「とうとう白状しなかったそうだ。だんまりを決め込んだ涼宮のキッツい目で睨まれてみろ、もうどうしようもないぜ。一説によるとUFOを呼ぶための地上絵だとか、あるいは悪魔召還の魔方陣だとか、または異世界への扉を開こうとしてたとか、噂はいろいろあったんだが、とにかく本人が理由を言わんのだから仕方がない。今もって謎のままだ」
俺の脳裏には、真っ暗の校庭に真剣な表情で白線を引いている涼宮ハルヒの姿が浮かんでいた。ガラゴロ引きずっているラインカーと山積みにしている石灰の袋はあらかじめ体育倉庫からガメていたんだろう。懐中電灯くらいはもっていたかもしれない。頼りない明かりに照らされた涼宮ハルヒの顔はどこか思い詰めた悲壮感に溢れていた。俺の想像だけどな。
たぶん涼宮ハルヒは本気でUFOあるいは悪魔または異世界への扉を呼び出そうとしたのだろう。ひょっとしたら一晩中、中学の運動場でがんばっていたのかもしれない。そしてとうとう何も現れなかったことにたいそう落胆したに違いない、と根拠もなく思った。
「他にもいっぱいやってたぞ」
谷口は弁当の中身を次々と片付けつつ、
「朝教室に行ったら机が全部廊下に出されていたこともあったな。校舎の屋上に星マークをペンキで描いたり、学校中に変なお札、キョンシーが顔にはっ付けているようなやつな、あれがベタベタ貼りまくられていたこともあった。意味わかんねーよ」
ところで今教室に涼宮ハルヒはいない。いたらこんな話も出来ないだろうが、たとえいたとしてもまったく気にしないような気もする。その涼宮ハルヒだが、四時間目が終わるとすぐ教室を出て行って五時間目が始まる直前にならないと戻ってこないのが常だ。弁当を持ってきた様子はないから食堂を利用しているんだろう。しかし昼飯に一時間もかけないだろうし、そういや授業中の合間の休み時間にも必ずといっていいほど教室にはいない奴で、いったいこどをうろついているんだか。
「でもなぁ、あいつモテるんだよな」
谷口はまだ話している。
「なんせツラがいいしさ。おまけにスポーツ万能で成績もどちらかと言えば優秀なんだ。ちょっとばかし変人でも黙って立っていたら、んなこと解んねーし」
「それにも何かエピソードがあんの?」
問う国木田は谷口の半分も箸が進んでいない。
「一学期は取っ替え引っ替えってやつだったな。俺の知る限り、一番長く続いて一週間、最短では告白されてオーケーした五分後に破局してたなんてのもあったらしい。例外なく涼宮が振って終わりになるんだが、その際に言い放つ言葉がいつも同じ、『普通の人間の相手してるヒマはないの』。だったらオーケーするなってーの」
こいつもそう言われたクチかもな。そんな俺の視線に気付いたか、谷口は慌てたふうに、
「聞いた話だって、マジで。何でか知らねえけどコクられて断るってことをしないんだよ、あいつは。三年になった頃にはみんな解ってるもんだから涼宮と付き合おうなんて考える奴はいなかったけどな。でも高校でまた同じことを繰り返す気がするぜ。だからな、お前が変な気を起こす前に言っておいてやる。やめとけ。こいつは同じクラスになったよしみで言う俺からの忠告だ」
やめるとくも何も、そんな気ないんだがな。
食い終わった弁当箱を鞄にしまい込んで谷口はニヤリと笑った。
「俺だったらそうだな、このクラスでのイチオシはあいつだな、朝倉涼子」
谷口がアゴをしゃくって示した先に、女どもの一団が仲むつまじく机をひっつけて談笑している。その中心で明るい笑顔を振りまいているのが朝倉涼子だった。
「俺の見立てでは一年の女の中でもベスト3には確実に入るね」
一年の女子全員をチェックでもしたのか。
「おうよ。AからDにまでランク付けしてそのうちAランクの女子はフルネームで覚えたぜ。一度しかない高校生活、どうせなら楽しく過ごしたいからよ」
「朝倉さんがそのAなわけ?」と国木田。
「AAランクプラス、だな。俺くらいになると顔見るだけで解る。アレはきっと性格までいいに違いない」
勝手に決めつける谷口の言葉はまあ話し半分で聞くとしても、実のところ朝倉涼子もまた涼宮ハルヒとは別の意味で目立つ女だった。
まず第一に美人である。いつも微笑んでいるような雰囲気がまことによい。第二に性格がいいという谷口の見立てはおそらく正しい。この頃になると涼宮ハルヒに話かけようなどという酔狂な人間は皆無に等しかったが、いくらぞんざいにあしらわれてもそれでもめげずに話かける唯一の人間が朝倉である。どことなく委員長っぽい気質がある。第三に授業での受け答えを見てると頭もなかなかいいらしい。当てられた問題を確実に正答している。教師にとってもありがたい生徒だろう。第四に同性にも人気がある。まだ新学期が始まって一週間そこそこだが、あっという間にクラスの女子の中心的人物になりおおせてしまった。人を惹きつけるカリスマみたいなものが確かにある。
いつも眉間にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒと比べると、そりゃ彼女にするんならこっちかな、俺だって。つーか、どっちにしろ谷口には高嶺の花だと思うが。
まだ四月だ。この時期、涼宮ハルヒもまだ大人しい頃合いで、つまり俺にとっても心安まる月だった。ハルヒが暴走を開始するにはまだ一ヶ月弱ほどある。
しかしながら、ハルヒの奇矯な振る舞いはこの頃から徐々に片鱗を見せていたと言うべきだろう。
と言うわけで、片鱗その一。
髪型が毎日変わる。何となく眺めているうちにある法則性があることに気付いたのだが、それはつまり、月曜日のハルヒはストレートのロングヘアを普通に背中に垂らして登場する。次の日、どこから見ても非のうちどころのないポニーテールでやって来て、それがまたいやになるくらい似合っていたのだが、その次に日、今度は頭の両脇で髪をくくるツインテールで登校し、さらに次の日になると三つ編みになり、そして金曜日の髪型は頭の四ヶ所を適当にまとめてリボンで結ぶというすこぶる奇妙なものになる。
月曜日=○、火曜=一、水曜=二......。
ようするに曜日が進むごとに髪を結ぶ箇所が増えているのである。月曜日にリセットされ後は金曜日まで一つずつ増やしていく。何の意味があるのかさっぱり解らないし、この法則に従うなら最終日には六ヶ所になっているはずで、果たして日曜日にハルヒがどんな頭になっているのか見てみたい気もする。
片鱗その二。
体育の授業は男女別に行われるので五組と六組の合同でおこなわれる。着替えは女が奇数クラス、男が偶数クラスに移動してすることになっており、当然前の授業が終わると五組の男子は体操着入れを手にぞろぞろと六組に移動するわけだ。
そんな中、涼宮ハルヒはまだ男どもが教室に残っているにもかかわらず、やおらセーラー服を脱ぎ出したのだった。
まるでそこらの男などカボチャかジャガイモでしかないと思っているような平然たる面持ちで脱いだセーラー服を机に投げ出し、体操着に手をかける。
あっけにとられていた俺を含め男たちは、この時点で朝倉涼子によって教室から叩き出された。
その後朝倉涼子をはじめとしてクラスの女子はこぞってハルヒに説教をしたらしいが、まあ何の効果もなかったね。ハルヒは相変わらず男の目などまったく気にせず平気で着替えをやり始めるし、おかげで俺たち男連中は体育前の休み時間になるとチャイムと同時にダッシュで教室から撤退することを----主に朝倉涼子に----義務づけられてしまった。
それにしてもやけにグラマーだったな......いや、それはさておき。
片鱗その三。
基本的に休み時間に教室から姿を消すハルヒはまた放課後になるとさっさと鞄を持って出て行ってしまう。最初はそのまま帰宅するのかと思っていたらさにあらず、呆れることにハルヒはこの学校に存在するあらゆるクラブに仮入部していたのだった。昨日バスケ部でボールを転がしていたかと思ったら、今日は手芸部で枕カバーをちくちく縫い、明日はラクロス部で棒振り回しているといった具合。野球部にも入ってみたというから徹底している。運動部からは例外なく熱心に入部を薦められ、そのすべてを断ってハルヒは毎日参加する部活を気まぐれに変えたあげく、結局どこにも入部することもなかった。
何がしたいんだろうな、こいつはよ。
この件により「今年の一年におかしな女がいる」という噂は瞬く間に全校に伝播し、涼宮ハルヒを知らない学校関係者などいないという状態になるまでにかかった日数はおよそ一ヶ月。五月の始まる頃には、校長の名前を覚えていない奴がいても涼宮ハルヒの名前を知らない奴は存在しないまでになっていた。
そんなこんなをしながら----もっとも、そんなこんなをしていたのはハルヒだけだったが----五月がやってくる。
運命なんてものを俺は琵琶湖で生きたプレシオサウルスが発見される可能性よりも信じていない。だが、もし運命が人間の知らないところで人生に影響を行使しているのだとしたら、俺の運命の輪はこのあたりで回り出したんだろうと思う。きっと、どこか遥か高みにいる誰かが俺の運命係数を勝手に書き換えやがったに違いない。
ゴールデンウィークが明けた一日目。失われた曜日感覚と共に、まだ五月だってのに異様な陽気にさらされながら俺は学校へと続く果てしない坂道を汗水垂らしながら歩いていた。地球はいったい何がやりたいんだろう。黄熱病にでもかかってるんじゃないか。
「よ、キョン」
後ろから肩を叩かれた。谷口だった。
ブレザーをだらしなく肩に引っかけ、ネクタイをよれよれに結んだニヤケ面で、
「ゴールデンウィークはどっか行ったか?」
「小学の妹を連れて田舎のバーさん家に」
「しけてやんなあ」
「お前はどうなんだよ」
「ずっとバイト」
「似たようなもんじゃないか」
「キョン、高校生にもなって妹のお守りでジジババのご機嫌うかがいに行ってどうすんだ。高校生なら高校生らしいことをだな、」
ちなみにキョンというのは俺のことだ。最初に言い出したのは叔母の一人だったように記憶している。何年か前に久しぶりに会った時、「まあキョンくん大きくなって」と勝手に俺の名をもじって呼び、それを聞いた妹がすっかり面白がって「キョンくん」と言うようになり、家に遊びに来た友達がそれを聞きつけ、その日からめでたく俺のあだ名はキョンになった。くそ、それまで俺を「お兄ちゃん」と呼んでいてくれていたのに。妹よ。
「ゴールデンウィークに従兄弟連中で集まるのが家の年中行事なんだよ」
投げやりに答えて俺は坂道を登り続ける。髪の中から滲み出す汗がひたすら不愉快だ。
谷口はバイトで出会った可愛い女の子がどうしたとか小金が貯まったからデート資金に不足はないとか、やたら元気に喋りまくっていた。他人の見た夢の話とペットの自慢話と並んで、この世で最もどうでもいい情報の一つだろう。
谷口の計画する相手不在の仮想デートコースを三パターンほど聞き流しているうちに、ようやく俺は校門に到達した。
教室に入ると涼宮ハルヒはとっくに俺の後ろの席で涼しい顔を窓の外に向けていて、今日は頭に二つドアノブを付けているようなダンゴ頭で、それで俺は、ああ今日は二ヶ所だから水曜日かと認識して椅子に座り、そして何か魔が差してしまったんだろう。それ以外の理由に思い当たるフシがない。気が付いたら涼宮ハルヒに話かけていた。
「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」
ハルヒはロボットのような動きで首をこちらに向けると、いつもの笑わない顔で俺を見つめた。ちと怖い。
「いつ気付いたの」
路傍の石に話かけるような口調で、ハルヒは言った。
そう言われればいつだっただろう。
「んー......ちょっと前」
「あっそう」
ハルヒは面倒くさそうに頬杖をついて、
「あたし、思うんだけど、曜日によって感じるイメージってそれぞれ異なる気がするのよね」
初めて会話が成立した。
「色で言うと月曜は黄色。火曜が赤で水曜が青で木曜が緑、金曜は金色で土曜は茶色、日曜は白よね」
それは解るような気がするが。
「つうことは、数字にしたら月曜がゼロで日曜が六なのか?」
「そう」
「俺は月曜は一って感じがするけどな」
「あんたの意見なんか誰も聞いていない」
「......そうかい」
投げやりに呟く俺の顔のどこがどうなのか、ハルヒは気に入らなそうなしかめ面でこちらを見つめ、俺が少しばかり精神に不安定なものを感じるまでの時間を経過させておいて、
「あたし、あんたとどこかで会ったことがある? ずっと前に」
と、訊いた。
「いいや」
と、俺は答え、岡部担任教師が軽快に入ってきて、会話は終わった。
きっかけ、なんてのは大抵どうってことないものなんだろうけど、まさしくこれがきっかけになったんだろうな。
だいたいハルヒは授業中以外に教室にいたためしがないから何か話そうと思うとそれは朝のホームルーム前くらいしか時間がないわけで、たまたま俺がハルヒの前の席にいただけってこともあって何気なく話かけるには絶好のポジションにいたことは否定出来ない。
しかもハルヒがまともな返事をよこしたことは驚きだ。てっきり「うるさいバカ黙れどうでもいいでしょ、そんなこと」と言われるものだとばかり思っていたからな。思っていながら話かけた俺もどうかしてるが。
だから、ハルヒが翌日、法則通りなら三つ編みで登校するところを、長かった麗しい黒髪をばっさり切って登場したときには、けっこう俺は動揺した。
腰にまで届こうかと伸ばしていた髪が肩の辺りで切りそろえられていて、それはそれでめちゃくちゃ似合っていたんだが、それにしたって俺が指摘した次に日に短くするってのも短絡的にすぎないか、おい。
そのことを尋ねるとハルヒは、
「別に」
相変わらず不機嫌そうに言うのみで格別の感想を漏らすわけでもなく、髪を切った理由を教えてくれるわけもなかった。
だろうと思ったけどさ。
「全部のクラブに入ってみたってのは本当なのか」
あれ以来、ホームルーム前のわずかな時間にハルヒと話すのは日課になりつつあった。話かけない限りハルヒは何のアクションも起こさない上、昨日のテレビドラマとか今日の天気とかいったハルヒ的「死ぬほどどうでもいい話」にはノーリアクションなので、話題には毎回気を使う。
「どこか面白そうな部があったら教えてくれよ。参考にするからさ」
「ない」
ハルヒは即答した。
「全然ない」
駄目押ししてハルヒは蝶の羽ばたきのような吐息を漏らした。ため息のつもりなんだろうか。
「高校に入れば少しはマシかと思ったけど、これじゃ義務教育時代と何も変わんないわね。入る学校間違えたかしら」
何を基準に学校選びをしているのだろう。
「運動系も文化系も本当にもうまったく普通。これだけあれば少しは変なクラブがあってもよさそうなのに」
何をもって変だとか普通だとかを決定するんだ?
「あたしが気に入るようなクラブが変、そうでないのは全然普通、決まってるでしょ」
そうかい、決まってるのかい。初めて知ったよ。
「ふん」
そっぽを向き、この日の会話、終了。
また別の日は、
「ちょっと小耳に挟んだんだけどな」
「どうせロクでもないことでしょ」
「付き合う男全部振ったって本当か?」
「何であんたにそんなこと言わなくちゃいけないのよ」
肩にかかる黒髪をハラリと払い、ハルヒは真っ黒な瞳で俺を睨みつけた。まったく、無表情でいないときは怒った顔ばかりだな。
「出どころは谷口? 高校に来てまであのアホと同じクラスなんて、ひょっとしたらストーカーかしら、あいつ」
「それはない」と思う。
「何を聞いたか知らないけど、まあいいわ、たぶん全部本当だから」
「一人くらいまともに付き合おうとか思う奴がいなかったのか」
「全然ダメ」
どうやらこいつの口癖は「全然」のようだ。
「どいつもこいつもアホらしいほどまともな奴だったわ。日曜日に駅前に待ち合わせ、行く場所は判で押したみたいに映画館か遊園地かスポーツ観戦、ファーストフードで昼ご飯食べて、うろうろしてお茶飲んで、じゃあまた明日ね、ってそれしかないの?」
それのどこが悪いんだと思ったが、口に出すのはやめておいた。ハルヒがダメだと言うからにはそれはすべからくダメなのだろうな。
「あと告白がほとんど電話だったのは何なの、あれ。そういう大事なことは面と向かって言いなさいよ!」
虫でも見るような目つきを前にして重大な----少なくとも本人にとっては----打ち明けごとをする気になれなかっただろう男の気分をトレースしながら一応俺は同意しておいた。
「まあ、そうかな、俺ならどっか呼び出して言うかな」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
どっちなんだよ。
「問題はね、くだらない男しかこの世に存在しないのかどうなのかってことよ。ほんと中学時代はずうっとイライラしっぱなしだった」
今もだろうが。
「じゃ、どんな男ならよかったんだ? やっぱりアレか、宇宙人か?」
「宇宙人、もしくはそれに準じる何かね。とにかく普通の人間でなければ男だろうが女だろうが」
どうしてそんなに人間以外の存在にこだわるのだろう。俺がそう言うと、ハルヒはあからさまにバカを見る目をして言い放った。
「そっちのほうが面白いじゃないの!」
それは......そうかもしれない。
俺だってハルヒの意見に否やはない。転校生の美少女が実は宇宙人と地球人のハーフであったりして欲しい。今、近くの席から俺とハルヒをチラチラとうかがっているアホの谷口の正体が未来から来た調査員かなにかであったりしたらとても面白いと思うし、やはりこっちを向いてなぜか微笑んでいる朝倉涼子が超能力者だったら学園生活はちょっと楽しくなると思う。
だが。そんなことはまずあり得ない。宇宙人や未来人や超能力者がいるなんてことがあり得ないし、たとえいたとしてもホイホイ俺たちの前に登場することも、だいたい何の関係もない俺の前にやってきて「いやあワタクシ、その正体は宇宙人とかでして」と自己紹介してくれるわけねーだろ。
「だからよ!」
ハルヒは椅子を蹴倒して叫んだ。教室に揃っていた全員が振り返る。
「だからあたしはこうして一生懸命、」
「遅れてすまない!」
息せき切って明朗快活岡部体育教師が駆け込んできて、拳を握りしめて立ち上がった姿勢で天井を睨んでいるハルヒとそのハルヒを一斉に振り返ってみている一同を目にして、ギョッと立ちすくんだ。
「あー......ホームルーム、始めるぞ」
すとんとハルヒは腰を下ろし、机の角を熱心に眺め始める。ふう。
俺も前を向き、他の連中も前を向き、岡部教諭はよたよたと壇上に登り、咳払いを一つ。
「遅れてすまない。あー......ホームルーム、始めるぞ」
最初から言い直し、いつもの日常が復活した。おそらくこんな日常こそがハルヒの最も忌むべきものなんだろうな。
でも人生ってそんなもんだろ?
しかしな。ハルヒの生き様をうらやましいと思う理屈では割り切れない感情が心の片隅でひっそり躍っていることも無視出来ない。
俺がとうにあきらめてしまった非日常との邂逅をいまだに待ち望んでいるわけだし、何と言ってもやり方がアクティブだよな。
ただ待っていても都合よくそんなもんは現れやしない。だったらこちらから呼んじまおう。で、校庭に白線引いたり屋上にペンキ塗ったりフダを貼り回ったり。
いやはや(これって死語か?)。
いつからハルヒが傍目から見るとトチ狂っているとしか思えないことをやっていたのか知らんけど、待てど暮らせど何も現れず、業を煮やしては奇怪な儀式を行ってもナシのツブテ、そりゃいつも全世界を呪っているような顔にもなる......わけないか。
休み時間、谷口が難しい表情を顔に貼り付けてやって来た。そんな顔してると本当にアホみたいだぞ、谷口。
「ほっとけ。んなこたぁいい。それよりお前、どんな魔法を使ったんだ?」
「魔法って何だ?」
高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないという警句を思い出しながら俺は聞き返した。授業が終わると例によって教室から消えてしまったハルヒの席を親指で差して谷口は言った。
「俺、涼宮が人とあんなに長い間喋ってるの初めて見るぞ。お前、何言ったんだ?」
さて、何だろう。適当なことしか訊いていないような気がするんだが。
「驚天動地だ」
あくまで大げさに驚きを表明する谷口。その後からひっこりと国木田が顔を出した。
「昔からキョンは変な女が好きだからねぇ」
誤解を招くようなことを言うな。
「キョンが変な女を好きでもいっこうに構わん。俺が理解しがたいのは、涼宮がキョンを相手にちゃんと会話を成立させたことだ。納得がいかん」
「どちらかと言うとキョンも変な人間にカテゴライズされるからじゃないかなぁ」
「そりゃ、キョンなんつーあだ名の奴がまともであるはずはないんだがな。それにしても」
キョンキョン言うな。俺だってこんなマヌケなニックネームで呼ばれるくらいなら本名で呼ばれたほうがいくらかマシだ。せめて妹には「お兄ちゃん」と呼んでもらいたい。
「あたしも聞きたいな」
いきなり女の声が降って来た。軽やかなソプラノ。見上げると朝倉涼子の作り物でもこうはいかない笑顔が俺に向けられていた。
「あたしがいくら話かけても、なーんも答えてくれない涼宮さんがどうしたら話すようになってくれるのか、コツでもあるの?」
俺は一応考えてみた。と言うか考えるフリをして首を振った。考えるまでもないからな。
「解らん」
朝倉は笑い声を一つ。
「ふーん。でも安心した。涼宮さん、いつまでもクラスで孤立したままじゃ困るもんね。一人でも友達が出来たのはいいことよね」
どうして朝倉涼子がまるで委員長みたいな心配をするのかと言うと、委員長だからである。この前のロングホームルームの時間にそう決まったのだ。
「友達ね......」
俺は首をかしげる。そうなのか? それにしては俺はハルヒの渋面しか見ていないような気がするぞ。
「その調子で涼宮さんをクラスに溶け込めるようにしてあげてね。せっかく一緒のクラスになったんだから、みんなで仲良くしていきたいじゃない? よろしくね」
よろしくね、と言われてもな。
「これから何か伝えることがあったら、あなたから言ってもらうようにするから」
いや、だから待てよ。俺はあいつのスポークスマンでも何でもないぞ。
「お願い」
両手まで合わされた。俺は「ああ」とか「うう」とか呻き、それを肯定の意思表示と取ったのか、朝倉は黄色いチューリップみたいな笑顔を投げかけて、また女子の輪の中へ戻って行った。輪を構成する女どもが残らずこちらを注目していたことが俺の気分をさらにツーランクほどダウンさせる。
「キョン、俺たち友達だよな......」
谷口が胡乱な目で俺に言う。何の話だよ。国木田までが目を閉じ腕を組んで意味もなく頷いている。
どいつもこいつもアホだらけだ。
席替えは月に一度といつの間にやら決まったようで、委員長朝倉涼子がハトサブレの缶に四つ折にした紙片のクジを回して来たものを引くと俺は中庭に面した窓際後方二番目というなかなかのポジションを獲得した。その後ろ、ラストグリッドについたのが誰かと言うと、なんてことだろうね、涼宮ハルヒが虫歯をこらえるような顔で座っていた。
「生徒が続けざまに失踪したりとか、密室になった教室で先生が殺されてたりとかしないもかしらね」
「物騒な話だな」
「ミステリ研究会ってのがあったのよ」
「へえ。どうだった?」
「笑わせるわ。今まで一回も事件らしい事件に出くわさなかったって言うんだもの。部員もただのミステリ小説オタクばっかりで名探偵みたいな奴もいないし」
「そりゃそうだろう」
「超常現象研究会にはちょっと期待してたんだけど」
「そうかい」
「ただのオカルトマニアの集まりでしかないのよ、どう思う?」
「どうも思わん」
「あー、もう、つまんない! どうしてこの学校にはもっとマシな部活動がないの?」
「ないもんはしょうがないだろう」
「高校にはもっとラディカルなサークルがあると思ってたのに。まるで甲子園を目指す気まんまんで入学したのに野球部がなかったと知らされた野球バカみたいな気分だわ」
ハルヒはお百度参りを決意した呪い女のようなワニ目で中空を眺め、北風のようなため息をついた。
気の毒だと思うところなのか。ここは?
だいたいにおいて、ハルヒがどんな部活動なら満足するのか、その定義が不明である。本人にも解っていないんじゃないのか? 漠然と「何か面白いことをしてて欲しい」と思っているだけで、その「面白いこと」が何なのか、殺人事件の解決なのか、宇宙人探しなのか、妖魔退散なのか、こいつの中でも定まっていない気がする。
「ないもんはしょうがないだろ」
俺は意見してやった。
「結局のところ、人間はそこにあるもので満足しなければならないのさ。言うなれば、それを出来ない人間が、発明やら発見やらをして文明を発達させてきたんだ。空を飛びたいと思ったから飛行機作ったし、楽に移動したいと考えたから車や列車を産み出したんだ。でもそれは一部の人間の才覚や発想によって初めて生じたものなんだ。天才が、それを可能にしたわけだ。凡人たる我々は、人生を凡庸に過ごすのが一番であってだな。身分不相応な冒険心なんか出さないほうが、」
「うるさい」
ハルヒは俺が気分よく演説していることろを中断させて、あらぬ方向を向いた。実に機嫌が悪そうだ。まあ、それもいつものことだ。
多分、この女はなんだっていいんだろう。ツマラナイ現実から遊離した現象ならば。でもそんな現象はそうそうこの世にはない。つーか、ない。
物理法則万歳! おかげで俺たちは平穏無事に暮らしていられる。ハルヒには悪いがな。
そう思った。
普通だろ?
いったい何がきっかけだったんだろうな。
前述の会話がネタフリだったのかもしれない。
それは突然やって来た。
うららかな日差しに眠気を誘われ、船をこぎこぎ首をカクカクさせていた俺の襟首をわしづかみにされたかと思うと恐るべき勢いで引っ張られ、脱力の極みにいた俺の後頭部が机の角に猛然と激突、俺は目の前に刻の涙を見た。
「何しやがる!」
もっともな怒りをもって憤然と振り返った俺が見たものは、俺の襟をひっつかんで突っ立っている涼宮ハルヒの----初めて見る----赤道直下の炎天下じみた笑顔だった。もし笑顔に温度が付帯しているなら、熱帯雨林のど真ん中くらいの気温になっているだろう。
「気がついた!」
唾を飛ばすな。
「どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」
ハルヒは白鳥座α星くらいの輝きを見せる両眼を真っ直ぐに俺に向けていた。仕方なく俺は尋ねる。
「何に気付いたんだ?」
「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」
「何を」
「部活よ!」
頭が痛いのは机の角にぶつけただけではなさそうだ。
「そうか。そりゃよかったな。ところでそろそろ手を離してくれ」
「なに? その反応。もうちょっとあんたも喜びなさいよ、この発見を」
「その発見とやらは後でゆっくり聞いてやる。場合によってはヨロコビを分かち合ってもい。ただ、今は落ち着け」
「なんのこと?」
「授業中だ」
ようやくハルヒは俺の襟首から手を離した。じんじんする頭を押さえて前に向き直った俺は、全クラスメイトの半口を明けた顔と、チョーク片手に今にも泣きそうな大学出たての女教師を視界に捕らえた。
俺は後ろに早く座れと手で合図し、次いで哀れな英語教師に掌を上に向けて差し出して見せた。
どうぞ、授業の続きを。
なにかを呟きつつ、ともかくハルヒは着席し、女教師は板書の続きに戻り......
新しくクラブを作る?
ふむ。
まさか、俺にも一枚噛《か》めと言うんじゃないだろうな。
痛む後頭部がよからぬ予感を告げていた。