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 第七章


 自称じしょう、宇宙人に作られた人造人間。自称、時をかける少女。自称、少年エスパー戦隊。それぞれに自称が取れる証拠しょうこを律儀りちぎにも俺に見せつけてくれた。三者三様の理由で、三人は涼宮ハルヒを中心に活動しているようだが、それはいい。いや、ちっともよくないが、百光年ほど譲ゆずっていいことにしてみても、さっぱり解わからないことがある。

 なぜ、俺なのだ?

 宇宙人未来人エスパー少年がハルヒの周りをうようよするのは、古泉いわくハルヒがそう望んだからだと言う。

 では、俺は?

 なんだって俺はこんなけったいなことに巻き込まれているんだ? 百パーセント純正に普通人だぞ。突然ヘンテコな前世に目覚めでもしない限り履歴りれき書に書けそうもない謎なぞの力もなんにもない普遍ふへん的な男子高校生だぞ。

 これは誰が書いたシナリオなんだ?

 それとも誰かに怪あやしいクスリでも嗅かがされて幻覚げんかくでも見ているのか。毒電波を受信しているだけなのか。俺を踊おどらせているのはいったい誰だ。

 お前か? ハルヒ。


 なーんてね。


 知ったこっちゃねえや。

 なぜ俺が悩なやまなくてはならんのだ。すべての原因はハルヒにあるらしい。だとしたら悩まなくてはならないのは俺ではなくハルヒだろう。俺がその困惑こんわくを肩代かたがわりしなければならない理由がどこにある。ない。ないと言ったらない。俺がそう決めた。長門も古泉も朝比奈さんも、俺にあんなことを告白するくらいなら本人に直接何もかも話してやればいいのだ。その結果、世界がどうなろうとそれはハルヒの責任であって、俺は無関係だ。

 せいぜい走り回ればいいさ。俺以外の人間がな。

 季節は本格的に夏の到来とうらいを前倒まえだおしすることを決めたに違ちがいない。俺は汗あせをダラダラ垂らしながら坂道を登りながら脱ぬいだブレザージャケットで汗を拭ぬぐいながらネクタイも外してシャツの第三ボタンまでを開けながらノロくさく足を動かしていた。朝にこんなに暑ければ昼にはどんなことになるのか解らないというくらい暑い。ナチュラルハイキングコースが学校への通学路になっている虚むなしさをかみしめる俺の肩かたが後ろから叩たたかれた。触さわるな、余計に暑くなるだろ、と振ふり返った先には谷口のにやけ面づら。

「よっ」

 俺の横に並んだ谷口もさすがに汗まみれだった。うっとおしいよなあ、せっかくキメた髪型かみがたが汗でベタベタになっちまう、などと言いながらも元気そうな奴やつである。

「谷口」

 一方的に興味ゼロの飼っている犬の話を始めた口を遮さえぎって俺は訊きいた。

「俺って、普通ふつうの男子高校生だよな」

「はあ?」

 そんな面白おもしい冗談じょうだんは初めて聞いたと言わんばかりのわざとらしい顔をする谷口。

「まず普通の意味を定義してくれ。話はそっからだな」

「そうかい」

 訊かないほうがマシだった。

「嘘うそ嘘、冗談。お前が普通かって? あのな、普通の男子生徒は、誰だれもいなくなった教室で女を押し倒たおしたりはしねえ」

 当たり前だが、覚えていたらしい。

「俺も男だ。根ほり葉ほり訊いたりしないだけの分別とプライドを持っている。だがな、解るだろ?」

 全然。

「どうやっていつのまにああなったんだ。え? しかも俺様的美的ランクAマイナーの長門有希と」

 Aマイナーだったのか。そんなことより、

「あれはだな......」

 俺は釈明しゃくめいした。谷口が考えていると思われるストーリーは妄想もうそう、夢想、完全フィクションである。長門は気の毒にも部室を根城にしてしまったハルヒの被害者ひがいしゃであり、文芸部の活動に支障をきたすようになった彼女は困りあぐねたあげく、俺に相談した。なんとか涼宮さんをここから退去させるわけにはいかないだろうか。真摯しんしな訴うったえに同調すること大だった俺は気の毒な彼女を救うべく、ハルヒの目の届かない場所で共々ともどもに善後策を協議することにし、ハルヒの帰ったあとの教室でアイデアを出し合っていると、長門は持病の貧血ひんけつを起こして倒れとっさに俺が彼女と床ゆかとの衝突しょうとつを防ごうとしたまさにその時闖入ちんにゅうしてきたのがお前、谷口である。まこと、真実とは明らかになってみれば下らないものであることよなあ。

「嘘うそつけ」

 一蹴いっしゅうされた。くそ、ところどころに真実を交えた完璧かんぺきな作り話だと思ったのに。

「その嘘話を信じたとして、あの誰とも接点を持ちたがらない長門有希から相談を持ちかけられた時点でもうお前は普通じゃねえよ」

 そんなに有名人だったのか、長門は。

「なにより涼宮の手下であるしな。お前が普通の男子生徒ってんなら、俺なんかミジンコ並に普通だぜ」

 ついでに訊きいておこう。

「なあ、谷口、お前、超能力ちょうのうりょくを使えるか?」

「あーん?」

 マヌケ面が第二段階に進行する。ナンパに成功した美少女がアブナイ宗教の勧誘かんゆう員だったと知ったときのような顔をして、谷口は、

「......そうか。お前はとうとう涼宮の毒に侵おかされてしまいつつあるんだな......。短い間だったが、お前はいい奴だった。あんまり近づかないでくれ。涼宮が移る」

 俺は谷口を小突こづき、谷口はぷふぅと吹ふき出してから表情を崩くずして笑い出した。こいつが超能力者と言うのなら、俺は今日から国連事務総長だ。

 校門から校舎へと続く石畳いしだたみを歩きながら、まあ一応感謝しておく。少なくとも話している間は暑さが少しは紛まぎれたからな。


 さしものハルヒも熱気にだけはいかんともしがたいらしく、くたりと机に寄りかかってアンニュイに彼方かなたの山並みを見物していた。

「キョン、暑いわ」

 そうだろうな、俺もだよ。

「扇あおいでくんない?」

「他人を扇ぐくらいなら自分を扇ぐわい。お前のために余分に使うエネルギーが朝っぱらからあるわけないだろ」

 ぐんにゃりとしたハルヒは昨日の弁舌べんぜつさわやかな面影おもかげもなく、

「みくるちゃんの次の衣装なにがいい?」

 バニー、メイドと来たからな、次は......ってまだ次があるのかよ。

「ネコ耳? ナース服? それとも女王様がいいかしら?」

 俺の頭の中で朝比奈さんを次々と着きせ替かえさせ、恥はずかしそうに顔を赤らめる小さな姿を想像して眩暈めまいを感じた。可愛かわいすぎる。

 真剣しんけんに悩なやみ始めた俺を、ハルヒは眉まゆをひそめて睨ねめつけて耳の後ろの髪かみを払はらい、

「マヌケ面づら」

 と決めつけた。お前が話を振ふったんだろうが。多分その通りだろうから抗議こうぎするつもりはないが。セーラー服の胸元むなもとから教科書で風を送り込みながら、

「ほんと、退屈たいくつ」

 ハルヒは口を見事なへの字にした。まるでマンガのキャラクターみたいに。


 輻射ふくしゃ熱でこんがり焼けそうな午後の時間を丸まる使った地獄じごくの体育が終わり、二時間も使ってマラソンさせんじゃねえよバカ岡部などとののしりながら俺たちは六組で濡ぬれ雑巾ぞうきんになった体操着を着替きがえて、五組に戻もどってきた。

 早めに体育を切り上げていた女子どもの着替えは終わっていたが、後はホームルームを残すだけとあって運動部に直行する数人は体操着のままであり、運動部とは無縁むえんのハルヒもなぜか体操着を着ていた。

「暑いから」

 というのがその理由である。

「いいのよ、どうせ部室に行ったらまた着替えるから。今週は掃除そうじ当番だし、このほうが動きやすい」

 頬杖ほおづえをついた卵形の顔を外に向けたままハルヒは流れる入道雲を目で追っていた。

「そりゃ合理的だな」

 朝比奈さんのコスプレは体操着でもいいな。コスプレと言わないか。正体不明でも一応は高校生をやってんだし。

「なんか妄想もうそうしてるでしょ」

 心を読んだとしか思えない的確なツッコミを放って俺をじろりと睨にらむ。

「あたしが部室に行くまで、みくるちゃんにエロいことしちゃダメよ」

 お前が来てからならいいのか、という言葉を飲み込んで、俺は新米の保安官に拳銃けんじゅうを突つきつけられた西部時代の指名手配犯のようにぞんざいな仕草で両手を広げた。


 いつものようにノックの返事を待って部室に入る。テレーズ人形のようにちょこんと椅子いすに座ったメイドさんが草原のヒマワリのような笑顔えがおで出迎でむかえてくれた。安らぐ。

 テーブルの隅すみでページを繰くる長門はさしずめなんかの間違まちがいで春に咲さいてしまったサザンカである。いやもう自分でも何の例えなんだが解わからん。

「お茶煎いれますね」

 頭のカチューシャをちょいと直し朝比奈さんは上履うわばきをパタパタ鳴らしてガラクタが溢あふれているテーブルに駆かけ寄った。急須きゅうすにお茶っ葉を慎重しんちょうな手つきで入れている。

 俺はどっかりと団長机に腰こしを下ろして、いそいそとお茶の用意をする朝比奈さんを眺ながめて一人悦えつに入いっていたが、その姿をみているうちに天啓てんけいが閃ひらめいた。

 パソコンのスイッチを入れ、OSの起動を待つ。ポインタから砂時計マークが消えたのを見計らって、俺はフリーソフトのビューワを立ち上げると、自分で設定したバスワードを入力してフォルダ「MIKURU」の中身を表示させた。さすがコンピュータ研が泣きながら手放した新機種だけあってたちどころにサムネイルが表示、朝比奈さんのメイド画像コレクション。

 朝比奈さんが湯飲みを用意している様子を片目で確認しながら、俺はその中の一枚を拡大し、さらに拡大。

 ハルヒによって無理矢理取らされた雌豹めひょうポーシング。大きくはだけた胸元から豊満な谷間がギリギリまで覗のぞいている。左の白い丘おかに黒い点があった。もう一段階拡大表示。だいぶドットが荒あれてきたが、確かにそれは星形をしていた。

「なるほど、これか」

「何か解ったんですか?」

 机に湯のみが置かれるより前に俺は手際よく画像を閉じていた。このへん、抜ぬかりはない。朝比奈さんがモニタを横から覗き込む。何もないんですよん。

「あれ、これ何です? このMIKURUってフォルダ」

 ぐあ、抜かった。

「どうして、あたしの名前がついてるの? ね、ね、何が入ってるの? 見せて見せて」

「いやあ、これはその、何だ、さあ何なんでしょうね。きっと何でもないでしょう。うん、そうです、何でもありません」

「嘘うそっぽいです」

 朝比奈さんは楽しそうに笑ってマウスに手を伸のばし、後ろから覆おおい被かぶさるように俺の右手を取ろうとする。させるまじ、とマウスをつかむ俺。背中に柔やわらかい身体からだを押しつけてくれながら朝比奈さんは俺の肩かたの上に顔を出した。甘やかな吐息といきが頬ほおにかかる。

「あの、朝比奈さん、ちょっと離はなれ......」

「見せて下さいよー」

 左手を俺の肩にかけ、右手でマウスを追いかける朝比奈さんの上半身が背中でつぶれている感触かんしょくに、俺はほとほと参るしかなかった。

 クスクス笑いが耳朶じだを打ち、そのあまりの心地ここちよさに俺はマウスを放しそうになり----、

「何やってんの、あんたら」

 摂氏せしマイナス273度くらいに冷え切った声が俺と朝比奈さんを凍こおり付かせた。通学鞄かばんを肩に引っ掛けた体操服のハルヒが父親の痴漢ちかん現場を目撃もくげきしたような顔で立っていた。

 止まっていた朝比奈さんの時間が動いた。メイド服のスカートをぎこちなく揺ゆらせて俺の背中から離れた朝比奈さんはロボット歩きで後ずさり、バッテリー切れ寸前のASIMOアシモのように、カクンと椅子に座り込んだ。蒼白そうはくの顔が今にも泣きそうになっている。

 ふん、と鼻息を吹ふいて、ハルヒは足音高く机に近寄って俺を見下ろし、

「あんた、メイド萌もえだったの?」

「なんのこった」

「着替きがえるから」

 好きにしたらいい。朝比奈さんが煎いれてくれた番茶を飲んでくつろぐ俺。

「着替えるって言ってるでしょ」

 だから何だ。

「出てけ!」

 ほとんど蹴け飛ばされるように俺は廊下ろうかへ転がり、鼻先で荒々あらあらしくドアが閉められた。

「なんだ、あいつ」

 湯飲みを置くヒマもなかった。俺は茶色の液体で濡ぬれたシャツを指でつまみ上げて、ドアに背をあずけた。

 この違和感いわかんはなんだろう。何か日常と違うところが感じられてならない。

「あー、そうか」

 教室でも堂々と着替えをおっぱじめるハルヒが、わざわざ俺を部室から放りだしたのが引っかかっているのだ。

 はて。どういう心境の変化だろ。それともいつしか恥はじらいを覚えるお年頃としごろになったのか。相変わらず五組の男は体育の時間前には脱兎だっとのごとく教室から飛び出すのが習慣になっているから解りようもない。そういえばその習慣を植え付けた朝倉ももういないんだな。

 持ったままの湯飲みをリノリウムの廊下に置いて、俺は片あぐらをかいた。

 しばらく待って、部室でごそごそする気配が止まっても中に入れという声がかからず、俺がぼんやり膝ひざを抱かかえて待つこと十分、

「どうぞ......」

 朝比奈さんの小さな声がドア越ごしに聞こえた。本物のメイドよろしく扉とびらを開けてくれた朝比奈さんの肩越かたごしに、たいして面白おもしろくもなさそうに机に肘ひじをついたハルヒの白く長い脚あしが見える。頭で揺れるウサ耳。懐なつかしのバニーガール姿。面倒めんどうくさいのか、カラーやカフス抜き、網あみタイツなしの生足で、しかし耳だけはしっかりつけたバニースタイルのハルヒが足を組んで座っていた。

「手と肩は涼すずしいけど、ちょっと通気性が悪いわね。この衣装」

 と言って、ハルヒはずるずると湯飲みの茶をすする。長門がページをパラリとめくった。

 バニーガールとメイドさんに囲まれ、どうしていいものやら見当もつかない。どっかでこの二人を客引きのバイトにでも斡旋あっせんしたら儲もうかりそうだなと考えていると、

「うわ、なんですか」

 笑顔のままで素すっ頓狂とんきょうな声をあげるという愉快ゆかいな反応をしつつ、古泉が現れた。

「あれ、今日は仮装パーティの日でしたっけ。すみません。僕、何も準備してなくて」

 話をややこしくするようなこと言うな。

「みくるちゃん、ここに座って」

 ハルヒが自分の前のパイプ椅子いすを指し示す。朝比奈さんは明らかにおどおどと、おっかなびっくりハルヒに背を向けて椅子に座った。何をするのかと思ったら、おもむろにハルヒは朝比奈さんの栗色くりいろの髪かみを手にとって、三つ編みに結ゆい始めた。

 この場面だけを切り取れば、まるで妹の髪をセットしてやっている姉、みたいな美しい風情ふぜいだが、いかんせん朝比奈さんは表情をこわばらせているし、ハルヒは仏頂面ぶっちょうづらだ。単に三つ編みメイドにしたかっただけだろう。

 底の浅い笑えみでその風景を見ている古泉に俺は問い掛けた。

「オセロでもやるか」

「いいですね。久しぶりです」

 俺たちが黒と白の争覇戦そうはせんをひたすら繰くり返している間(光の玉に変化出来るくせに古泉はやたら弱かった)、ハルヒは朝比奈さんの髪を結ったりほどいたりツインテールにしたり団子にしたりして遊び(ハルヒの手が触ふれるごとに小さく震ふるえる朝比奈さん)、長門は一瞬いっしゅんたりとも面おもてを上げずに読書に浸ひたっていた。

 なんの集まりなんだか、ますます解わからなくなってきた。


 そう、その日、俺たちは何の変哲へんてつもないSOS団的活動をしてすごした。そこには空間を歪ゆがめる情報がどうとか言う宇宙人も未来からの訪問者も青い巨人きょじんと赤い球体も何も関係なかった。やりたいことも取り立てて見当たらず、何をしていいのかも知らず、時の流れに身をまかすままのモラトリアムな高校生活。当たり前の世界、平凡へいぼんな日常。

 あまりの何もなさに物足りなさを感じつつも、「なあに、時間ならまだまだあるさ」と自分に言い聞かせてまた漫然まんぜんと明日を迎むえる繰り返し。

 それでも俺は充分じゅうぶん楽しかった。無目的に部室に集まり、小間使いのようによく動く朝比奈さんを眺ながめ、仏像のように動かない長門を眺め、人畜無害じんちくむがいな微笑ほほえみの古泉を眺め、ハイとローの間を忙いそがしく行き来するハルヒの顔を眺めているのは、それはそれで非日常の香かおりがして、それは俺にとって妙みょうに満足感を与あたえてくれる学校生活の一部だった。クラスメイトに殺されそうになったり、灰色の無人世界で暴れる化け物に出会ったりなんぞ、そうそうありやしないだろうしな。あれが幻覚げんかくや催眠さいみん術や白昼夢でないとは断言しきれないが。

 涼宮ハルヒとその一味みたいに呼ばれるのは業腹ごうはらだが、色んな意味でこんな面白い連中と一緒いっしょにいられるのは俺だけだ。なぜ俺だけなのかという疑問はこの際脇わきに置いておく。そのうち俺以外の人間の参加もあるかもしれん。

 そうさ、俺はこんな時間がずっと続けばいいと思っていたんだ。

 そう思うだろ? 普通ふつう。

 だが、思わなかった奴やつがいた。

 決まっている。涼宮ハルヒだ。

 夜になって、晩飯だの風呂ふろだの明日の英語で和訳を当てられそうなところの予習だのを適当に済ませ、もう後は寝ねるしかない時間を時計の針が指したあたりで、俺は自室のベットに寝ころんで長門から押しつけられた厚い書物をひもといていた。たまには読書もいいかなと思って何の気なしに読み始めたのだが、これが存外面白くてすいすいページが進む進む。やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。いいね、読書は。

 ただし一夜で読み切るにはあまりに文字量が多いので、俺は登場人物の一人が長々とした独白をちょうど終えたキリのいいところで本を置いた。そろそろ睡魔すいまの野郎やろうが目蓋まぶたの上でキャンプを張った頃合ころあいだ。長門の文字が刻まれた栞しおりを挟はさんで本を閉じ、電気を消して布団ふとんに潜もぐり込む。まどろみ数分、俺は寝付きよく眠ねむりに落ちた。


 ところで人が夢を見る仕組みをご存知だろうか。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類があって周期的に繰り返されるわけなのだが、眠りばなの数時間は深い眠り、ノンレム睡眠が多く訪れる。このときの脳は活動を休止しており、身体からだは眠っているが脳が軽く活動しているレム睡眠時にわれわれは夢を見るのである。朝方になってレム睡眠の構成比は増えていき、つまり夢というものはほとんど寝起き直前に続けて見るものなのだ。俺は毎日のように夢を見るが、ギリギリまで寝床ねどこにいていざ起きたら慌あわただしく登校の用意をしなくてはならないからすぐに忘れてしまう。ふとしたきっかけで何年か前の見たことも忘れていた夢の内容を思い出すころもあって、いや人間の記憶きおくの仕組みってのはまだ不思議で満ちているんだな。

 閑話休題かんわきゅうだい。そんなことはどうでもいいんだ。

 頬ほおを誰だれかが叩たたいている。うざい。眠い。気持ちよく眠っている俺を邪魔じゃまするな。

「......キョン」

 まだ目覚ましは鳴ってないぞ。何度鳴ってもすぐ止めてしまうけどな。お袋ふくろに命じられた妹が面白おもしろ半分に俺を布団から引きずり出すにはまだ余裕よゆうがあるはずだ。

「起きてよ」

 いやだ。俺は寝ていたい。胡乱うろんな夢を見ているヒマもない。

「起きろってんでしょうが!」

 首を絞しめた手が俺を揺ゆり動かし、後頭部を固い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。......固い地面?

 上半身を跳はね上げる。俺を覗のぞき込んでいたハルヒの顔がひょいと俺の頭を避よけた。

「やっと起きた?」

 俺の横で膝ひざ立ちになっているセーラー服のハルヒが、白い顔に不安を滲にじませていた。

「ここ、どこだか解わかる?」

 解る。学校だ。俺たちの通う県立北高校。その校門から靴くつ脱ぬぎ場までの石畳いしだたみの上。明かりひとつ灯ともっていない、夜の校舎が灰色の影かげとなって俺の目の前にそびえ----。

 違ちがう。

 夜空じゃない。

 ただ一面に広がる暗い灰色の平面。単一色に塗ぬり潰つぶされた燐光りんこうを放つ天空。月も星も雲さえない、壁かべのような灰色空。

 世界が静寂せいじゃくと薄闇うすやみに支配されていた。

 閉鎖へいさ空間。

 俺はゆっくりと立ち上がった。寝間着ねまきがわりのスウェットではなく、ブレザーの制服が俺の身体をまとっている。

「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんな所にいて、隣となりであんたが伸のびていたのよ。どういうこと? どうしてあたしたち学校なんかにいるの?」

 ハルヒが珍めずらしくか細い声で訊きいている。俺は返事の代わりに自分の身体にあちこち手を触ふれてみた。手の甲こうをつねった感触かんしょくも、制服の手触てざわりも、まるで夢とは思えない。髪かみの毛を二本ばかり引っ張って抜ぬくと確かに痛い。

「ハルヒ、ここにいたのは俺たちだけか?」

「そうよ。ちゃんと布団で寝ていたはずなのに、なんでこんな所にいるわけ? それに空も変......」

「古泉を見なかったか?」

「いいえ。......でもどうして?」

「いや何となくだが」

 ここが例の次元断層がどうのこうのしたとかの閉鎖空間なら、光の巨人きょじんと古泉たちもいるはずだ。

「とりあえず学校を出よう。どこかで誰かに会うかもしれない」

「あんた、あんまり驚おどろかないのね」

 驚いているさ。特にお前がここにいることにな。ここはお前が作り出す巨人の遊び場じゃなかったのか? それともやはりこれは異常にリアル感のある俺が見ている夢か。人気のない学校でハルヒと二人きり。フロイト博士ならなんと分析ぶんせきしてくれるだろう。

 ハルヒと付つかず離はなれず並んで門扉もんぴから足を踏ふみ出そうとした俺の鼻先が見えない壁に押された。ねっとりした感触には記憶がある。力を込めればある程度は進めるものの、すぐに固い壁にぶち当たる。透明とうめいな壁が校門のすぐ外に立ちはだかっていた。

「......何、これ」

 ハルヒが両手を盛んに突つき出しながら、目を見開いている。俺は学校の敷地しきちぞいに歩いて確認する。不可視の壁は歩いた範囲はんい内では途切とぎれることなく続いていた。

 まるで、俺たちを学校に閉じ込めるように。

「ここからは出られないらしい」

 風がそよとも吹ふいていない。大気すら動きを止めたようだ。

「裏門へ回ってみるか」

「それより、どこかと連絡れんらくが取れない? 電話でもあればいいんだけど、携帯けいたいは持ってないし」

 ここが古泉が説明したとおりの閉鎖空間なら電話があっても無駄むだだろうが、俺たちはいったん校舎へ入ることにした。職員室に行けば電話くらいあるだろう。

 電気のついていない、暗い校舎というのはなかなかに不気味なものだ。俺たちは土足のまま下駄箱げたばこの列を通り抜け、無音の校舎を歩く。途中とちゅう、一階の教室のスイッチを入れてやると瞬またたきながら蛍光灯けいこうとうがついた。味も素っ気もない人工の光だが、それだけでも俺とハルヒは、ほっとした顔を見合わせた。

 俺たちはまず宿直室へと向かい、誰もいないことを確認してから職員室へ、当然鍵かぎがかかっていたので消火栓しょうかせん扉とびらから消火器を取り出してその底を窓ガラスに叩きつけ、窓から部屋に侵入しんにゅうした。

「......通じてないみたい」

 ハルヒが差し出す受話器を耳に当てる。何の音もしない。試しにダイヤルボタンを押してみたが反応なし。

 職員室を後にした俺たちは、教室の電気を次々点灯させながら上を目差した。われらが一年五組の教室は最上階にある。そこから下界を覗のぞけば、周囲がどうなってんのか解るかもしれない、とハルヒは言った。

 校舎を歩いている間、ハルヒは俺ブレザーの裾すそをつまんでいた。頼たよりにしてくれるなよ、俺には何の力もないんだからな。それに怖こわいならいっそ腕うでにすがりついてくれよ。そっちのほうが気分が出る。

「バカ」

 ハルヒは上目遣づかいで俺にきつい視線を送ったものの、指を離そうとはしなかった。

 一年五組の教室に変わるところは何もない。出てきたときのままだ。黒板の消し跡も、画鋲がびょうの刺ささったモルタルの壁も。

「......キョン、見て......」

 窓に駆かけ寄ったハルヒはそう言ったきり絶句した。その隣となで、俺もまた眼下の世界を見下ろした。

 見渡みわたす限りダークグレーの世界が広がっていた。山の中腹に建っている校舎の四階からは遠くの海岸線までを目にすることが出来る。左右百八十度、視界が届く範囲に、人間の生活を思わせる光はどこにもない。すべての家々は闇やみに閉とざされ、カーテン越ごしにでも光を漏もらす窓が一つもなかった。この世から人間が残らず消えてしまったかのように。

「どこなの、ここ......」

 俺たち以外の人間が消えたのではなく、消えたのは俺たちのほうだ。この場合、俺たちこそが誰だれもいない世界に紛まぎれ込んだ闖入ちんにゅう者になるのだろう。

「気味が悪い」

 ハルヒは自分の肩かたを抱だくようにして呟つぶやいた。


 行く当てもない。そんなわけで俺たちは夕方に後にしたばかりの部室にやって来た。鍵は職員室からガメてきたので問題ない。

 蛍光灯の下、俺たちは見慣れた根城に戻もどった安心感からどちらともなく安堵あんどの息を漏らした。

 ラジオをつけてみてもホワイトノイズすら入らず、風の音一つしない静まりかえった部室にポットから急須きゅうすに注つがれる湯の音だけがこだました。茶葉を入れ替かえる気にもならないので出がらしのお茶だ。煎いれているのは俺。ハルヒは半ば呆然ぼうぜんと灰色の外界げかいを眺ながめている。

「飲むか?」

「いらない」

 俺は自分のぶんの湯飲みを持ってパイプ椅子いすを引き寄せた。一口飲んでみる。朝比奈さんのお茶のが百倍美味うまい。

「どうなってんのよ、何なのよ、さっぱり解わからない。ここはどこで、なぜあたしはこんな場所に来ているの?」

 ハルヒは窓の前に立ったまま振ふり返らずに言った。後ろ姿がやけに細く見えた。

「おまけに、どうしてあんたと二人だけなのよ?」

 知るものか。ハルヒはスカートと髪かみを翻ひるがし、俺を怒おこったような顔で見ると、

「探検してくる」と言って、部室を出ようとする。腰こしをあげかけた俺に、

「あんたはここにいて。すぐ戻るから」

 言い残してさっさと出て行った。うむ、そういうところはハルヒらしいな。溌《はつ》剌らつとした足音が遠ざかるのを聞きながら一人不味まずい茶を飲む前に、やっと奴やつが現れた。

 小さな赤い光の玉。最初、ピンポン球くらいの大きさ、次いで除々じょじょに輪郭りんかくを広げた光は蛍ほたるのような明滅めいめつを繰り返して、最終的に人型を取った。

「古泉か?」

 人の形をしていても人間には見えない。目も鼻も口もない、赤く輝かがやく人の形。

「やあ、どうも」

 能天気な声は、確かに赤い光の中から届く。

「遅おそかったな。もうちょっとまともな姿で登場すると思っていたが......」

「それも込みで、お話することがあります。手間取ったのは他ほかでもありません。正直に言いましょう。これは異常事態です」

 赤い光が揺ゆらめいた。

「普通ふつうの閉鎖へいさ空間なら僕は難なく侵入しんにゅう出来ます。しかし今回はそうではありませんでした。こんな不完全な形態で、しかも仲間のすべての力を借り受けてやっとなんです。それも長くは持たないでしょう。我々に宿った能力が今にも消えようとしているんです」

「どうなってるんだ? ここにいるのはハルヒと俺だけなのか?」

 その通りです、と古泉は言い、

「つまりですね、我々の恐れていたことがついに始まってしまったわけですよ。とうとう涼宮さんは現実世界に愛想を尽つかして新しい世界を創造することに決めたようです」

「............」

「おかげで我々の上の方は恐慌きょうこう状態ですよ。神を失ったこちらの世界がどうなるのか、誰にも解りません。涼宮さんが慈悲じひ深ければこのまま何もなく存続する可能性もありますが、次の瞬間しゅんかんに無に帰することもありえます」

「何だってまた......」

「さあて」

 赤い光が炎ほのおのようにふらふらと、

「ともかく涼宮さんとあなたはこちらの世界から完全に消えています。そこはただの閉鎖空間じゃない。涼宮さんが構築した新しい時空なんです。もしかしたら今までの閉鎖空間もその予行演習だったのかも」

 面白おもしい冗談じょうだんだが、それのどこで笑っていいのか教えてくれ。はっはっはっ。

「笑い事じゃないですよ。大マジです。そちらの世界は今までの世界より涼宮さんの望むものに近づくでしょう。彼女が何を望んでいるかまでは知りようがありませんが。さあどうなるんでしょうね」

「それはいいとして、俺がここにいるのはどういうわけだ」

「本当にお解りでないんですか? あなたは涼宮さんに選ばれたんですよ。こちらの世界から唯一ゆいいつ、涼宮さんが共にいたいと思ったのがあなたです。とっくに気付いていたと思いましたが」

 古泉の光は今や電池切れ間近の懐中かいちゅう電灯並に光度が落ちていた。

「そろそろ限界のようです。このままいくとあなたがたとはもう会えそうにありませんが、ちょっとホッとしてるんですよ、僕は。もうあの <神人> 狩りに行くこともないでしょうから」

「こんな灰色の世界で、俺はハルヒと二人で暮らさないといかんのか」

「アダムとイヴですよ。産めや増やせばいいじゃないですか」

「......殴なぐるぞ、お前」

「冗談です。おそらくですが、閉ざされた空間なのは今だけでそのうち見慣れた世界になると思いますよ。ただしこちらとまったく同じではないでしょうが。今やそちらが真実で、こっちが閉鎖空間だと言えます。どう違ちがってしまうのか、それを観測出来ないのは残念です。まあそっちに僕が生まれるようなことがあれば、よろしくしてやってください」

 古泉はもとのピンポン球に戻もどりつつあった。人間の形が崩くずれ、燃もえ尽きた恒星こうせいのように収縮していく。

「俺たちはもうそっちに戻れないのか?」

「涼宮さんが望めば、あるいは。望み薄うすですがね。僕としましては、あなたや涼宮さんともう少し付き合ってみたかったので惜おしむ気分であります。SOS団での活動は楽しかったですよ。......ああ、そうそう、朝比奈みくると長門有希から伝言を言付かっていたのを忘れてました」

 完全に消え失うせる前に、古泉はこう言い残した。

「朝比奈みくるからは謝っておいて欲しいと言われました。『ごめんなさい、わたしのせいです』と。長門有希は、『パソコンの電源を入れるように』。では」

 最後はあっさりしたものだった。蝋燭ろうそくの火を吹ふき消したような。

 俺は朝比奈さんの伝言とやらに頭をひねった。なぜ謝る。朝比奈さんが何をしたと言うんだ。考えるのは後にして、俺はもう一つの伝言に従ってパソコンのスイッチを押した。ハードディスクがシークする音を立てながらディスプレイにOSのロゴマークを浮うかび上がらせ......なかった。ものの数秒で立ち上がるはずのOSがいつまでたっても表示されず、モニタは真っ黒のまま、白いカーソルだけが左端はじで点滅てんめつしていた。そのカーソルが音もなく動き、そっけなく文字を紡つむぐ。


 YUKU.N > みえてる?


 しばしほうけた後、俺はキーボードを引き寄せた。指を滑すべらせる。

『ああ』

 YUKU.N > そっちの時空間とはまだ完全には連結を絶たれていない。でも時間の問題。すぐに閉じられる。そうなれば最後。

『どうすりゃいい』

 YUKU.N > どうにもならない。こちらの世界の異常な情報噴出ふんしゅつは完全に消えた。情報統合思念体は失望している。これで進化の可能性は失われた。

『進化の可能性ってな結局なんだったんだよ。ハルヒのどかが進化なんだ』

 YUKU.N > 高次の知性とは情報処理の速度と正確さのこと。有機生命体に付随ふずいする知性は肉体から受ける錯誤さくごとノイズ情報が多すぎて処理に制限がかかる。それゆえに一定以上のレベルで進化はストップする。

『肉体がなければいいのか』

 YUKU.N > 情報統合思念体は初めから情報のみによって構成されていた。情報処理能力は宇宙が熱死を迎むかえるまで無限に上昇じょうしょうすると思われた。それは違った。宇宙に限りがあるように進化にも限りがあった。少なくとも情報による意識体である以上は。

『涼宮は、』

 YUKU.N > 涼宮ハルヒは何もないところから情報を生み出す力を持っていた。それは情報統合思念体にもない力。有機体に過ぎない人間が一生かかっても処理しきれない情報を生み出している。この情報創造能力を解析かいせきすれば自立進化への糸口がつかめるかもしれないと考えた。

 カーソルが瞬またたいた。どこかためらう気配を感じさせて、次の文字が流れる。

 YUKU.N > あなたに賭かける。

『何をだよ』

 YUKU.N > もう一度こちらへ回帰することを我々は望んでいる。涼宮ハルヒは重要な観察対象。もう二度と宇宙に生まれないかもしれない貴重な存在。私という個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。

 文字が薄れてきた。弱々しく、カーソルはやけにゆっくりと文字を生んだ。

 YUKU.N > また図書館に

 ディスプレイが暗転しようとしていた。とっさに明度を上げてみても無駄むだ。最後に長門の打ち出した文字が短く、

 YUKU.N > sleeping beauty


 カカカ、ハードディスクが回り出す音に俺は飛び上がりそうになる。アクセスランプが明滅めいめつし、ディスプレイには見慣れたOSのデスクトップ表示。パソコンの冷却れいきゃくファンが立てる唸うなりだけがこの世の音のすべてだった。

「どうしろってんだよ。長門、古泉」

 俺は腹の底からこみ上げるため息をついて、何気なく、本当に何気なく窓を見上げ、


 青い光が窓の枠内わくないを埋うめ尽つくしていた。


 中庭に直立する光の巨人きょじん。間近で見るそれはほとんど青い壁かべだった。

 ハルヒが飛び込んできた。

「キョン! なにか出た!」

 窓際まどぎわに立ち尽くす俺の背中にぶつかるようにして止まったハルヒは隣となりに並んで、

「なにアレ? やたらでかいけど、怪物かいぶつ? 蜃気楼しんきろうじゃないわよね」

 興奮した口調だった。先ほどまでの悄然しょうぜんとした様子が嘘うそのよう。不安など感じていないように目を輝かがやかせている。

「宇宙人かも、それか古代人類が開発した超ちょう兵器が現代に蘇よみがえったとか! 学校から出られないのはあいつのせい?」

 青い壁が身じろぎする。高層ビルを蹂躙じゅうりんする光景が脳裏のうりでフラッシュバック、俺はとっさにハルヒの手を取ると部屋から飛び出した。

「な、ちょっ! ちょっと、何?」

 転がるように廊下ろうかに出る、と同時に轟音ごうおんが大気を震動しんどうさせ、俺はハルヒを廊下に押し倒たおして覆おおい被かぶさった。びりびりと部室棟とうが揺ゆれる。硬かたく重たいものが地面に激突げきとつする衝撃しょうげきと音が廊下を伝わって俺に届いた。その度合いからして巨人の攻撃こうげき目標になったのは部室棟ではない、多分向かいの校舎だ。

 俺は口をパクパク開閉させているハルヒの手を握にぎって起こし、走り出した。ハルヒは意外におとなしくついてくる。

 汗あせばんでいるのは俺の掌てのひらか、それともハルヒか。

 古びた部室棟の中は埃ほこりの匂においすらしない。階段目指して全力ダッシュする俺は二回目の破壊はかい音を聞く。

 ハルヒの体温を掌に感じながら階段を駆かけ下り、中庭を横切ってスロープからグラウンドへ出た。横目でうかがったハルヒの顔は、俺の気の迷いなのかどうなのか、なぜか少し嬉うれしがっているように思える。まるでクリスマスの朝、枕元まくらもとに事前に希望していた通りのプレゼントが置かれていることを発見した子供のように。

 校舎からとりあえずの距離きょりをとるまで走り続ける。振ふり仰あおいで見ると、巨人の大きさがさらによく解わかった。だいたい古泉に連れられて行った場所では、あいつは高層ビルほどもあったのだ。

 巨人が手を振り上げ、拳こぶしを校舎に叩たたきつけた。最初の一撃いちげきによって縦に割れていた四階建ての安普請やすぶしんはいとも簡単に崩壊ほうかいした。破片が四方八方に飛び散って耳障みみざわりな音を立てる。

 二百メートルトラックの真ん中まで進んで、俺たちは脚あしを止めた。薄暗うすぐらいモノトーンのキャンパスにそこだけが冗談じょうだんのように青い巨大な人型が浮うかび上がっている。

 写真を撮とるならこの情景だと俺は思った。朝比奈さんの胸をつかむコンピュータ研の部長ではなく、ましてや朝比奈さんのコスプレ姿でもなく、この映像こそをホームページに貼はり付けるべきだろう。

 そんなことを考えている俺の耳にハルヒの早口が届いた。

「あれさ、襲おそってくると思う? あたしには邪悪じゃあくなもんだとは思えないんだけど。そんな気がするのね」

「わからん」

 答えながら俺は考えていた。最初に俺を閉鎖へいさ空間へと導いた古泉は説明した。 <神人> の破壊活動をほったらかしにしていれば、やがて世界が置き換かわってしまう、と。この灰色世界が今までいた現実世界に取って代わってしまい、そうして......。

 どうなってしまうと言うのだろう。

 さっきの古泉によると、新しい世界がハルヒによって創造されるのだと言うことらしい。そこには俺の知っている朝比奈さんや長門はいるのだろうか。それか、目の前にいる <神人> が自在に闊歩かっぽし、宇宙人や未来人や超能力ちょうのうりょく者やらが普通ふつうにそこらをブラブラしているような、非日常的な風景が常識として迎むかえ入れられるような世界になるのか。

 そんな世界になったとして、そこで俺の果たす役割は何なのか。

 考えるだけ無駄むだのようにも思える。解るわけがないからだ。ハルヒが何を考えているのかなんて、他人の思考を読むほど俺は達者な人間ではない。俺には何の芸もない。

 考え込む俺の耳元でハルヒの朗ほがらかな声が、

「何なんだろ、ホント。この変な世界もあの巨人も」

 お前が生み出したものらしいぜ、ここも、あいつもな。それより俺が訊ききたいのは、なぜ俺を巻き込むんだかということだ。アダムとイヴだと? アホらしい。そんなベタな展開を俺は望めない。認めてたまるか。

「元の世界に戻りたいと思わないか?」

 棒読み口調で俺は言った。

「え?」

 輝かがやいていたハルヒの目が曇くもったように見えた。灰色の世界でも際きわだつ白い顔が俺に向く。

「一生こんなところにいるわけにもいかないだろ。腹が減っても飯食う場所がなさそうだぜ、店も開いてないだろうし。それに見えない壁かべ、あれが周囲を取り巻いているんだとしたら、そこから出ていくことも出来ん。確実に飢うえ死にだ」

「んー、なんかね。不思議なんだけど、ぜんぜんそのことは気にならないのね。なんとかなるような気がするのよ。自分でも納得出来ない、でもどうしてだろ、今ちょっと楽しいな」

「SOS団はどうするんだ。お前が作った団体だろう。ほったらかしかよ」

「いいのよ、もう。だってほら、あたし自身がとっても面白おもしろそうな体験をしているんだし。もう不思議なことを探す必要もないわ」

「俺は戻りたい」

 巨人きょじんは校舎の解体作業の手を休めていた。

「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだたんだな。アホの谷口や国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含ふくめてもいい」

「......何言ってんの?」

「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」

 ハルヒは少しうつむき加減に、

「会えるわよきっと。この世界だっていつまでも闇やみに包まれているわけじゃない。明日になったら太陽だって昇のぼってくるわよ。あたしには解るの」

「そうじゃない。この世界でのことじゃないんだ。元の世界のあいつらに、俺は会いたいんだよ」

「意味わかんない」

 ハルヒは口を尖とがらせて俺を見上げていた。せっかくのプレゼントを取り上げられた子供のような怒いかりと悲哀ひあいが混じった微妙びみょうな表情だ。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」

「思ってたとも」

 巨人が歩き出した。崩くずれ落ちることなく残っていた校舎の残骸を蹴けり倒して中庭を進んでくる。渡わたり廊下に手刀をかまし、部室棟とうにもパンチを入れる。吹ふき飛んでいく俺たちの学校。俺たちの部室。

 ハルヒの頭越ごしに、その巨人とは別の方角にも青い壁が立ち上がってくるのが見えた。一つ、二つ、三つ......。五匹ひき目まで数えて、俺はカウントを放棄ほうきした。

 光の巨人たちは、赤い光玉に邪魔じゃまされることもなく、灰色の世界を好きなように破壊はかいし始め、し続けていた。その姿がどこか喜々として見えるのは俺の精神上の問題だろうか。奴やつらが手足を振ふり上げるたびに空間が削けずり取られるように、そこに見えていた風景が消え去っていく。

 もう校舎の跡形あとかたは半分も残っていない。

 閉鎖へいさ空間が拡大しているのかどうか俺は感じ取ることが出来ないし、また拡大しまくったこの空間がやがて新たな現実空間に成り果てるのかどうかも知らん。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。今の俺は、電車の隣となりに座った酔よっぱいのおっさんが「誰だれにも言うなよ、実はわしは宇宙人じゃ」と言ったところで信じてしまえる。すでに俺の経験値は一ヶ月前の三倍の数値くらいには膨ふくれあがっているのだ。

 俺に出来ることは何か。一ヶ月前なら無理でも、今の俺になら出来ることだ。ヒントならすでにいくつも貰もらってある。

 俺は決意して、そして言った。

「あのな、ハルヒ。俺はここ数日でかなり面白い目にあってたんだ。お前は知らないだろうけど、色んな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、実際そのように行動していた。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

 俺はハルヒの肩かたをつかもうとして、まだ手を握にぎりしめたままだったことに気付いた。ハルヒは、こいつは何か悪いものでも食べたのかと言いたそうな顔をしていた。

 つい、と視線をそらしてハルヒは校舎をめちゃくちゃに破壊している巨人を、そうするのが当然だと言うように眺ながめた。

 その横顔は、あらためて見ると年相応の線の柔やわらかさが浮うき彫ぼりになっている。長門は言った、「進化の可能性」と。朝比奈さんによると「時間の歪ゆがみ」で、古泉に至っては「神」扱あつかいだ。では俺にとってはどうなのか。涼宮ハルヒの存在を、俺はどう認識しているのか?

 ハルヒはハルヒであってハルヒでしかない、なんてトートロジーでごまかすつもりはない。ないが、決定的な解答を、俺は持ち合わせてなどいない。そうだろ? 教室の後ろにいるクラスメイトを指して「そいつは俺にとって何なのか」と問われてなんと答えりゃいいんだ? ......いや、すまん。これもごまかしだな。俺にとって、ハルヒはただのクラスメイトじゃない。もちろん「進化の可能性」でも「時間の歪み」でもましてや「神様」でもない。あるはずがない。

 巨人きょじんが振り向いた。グラウンドへと。顔も目もないのに、俺は確かに視線を感じた。歩き出す。その一歩は何メートルあるのか、緩慢かんまんな歩みの割に俺たちに近づく姿が巨大さを増してくる。

 思い出せ。朝比奈さんは何と言ったか。その予言を。それから長門が最後に俺に伝えたメッセージ。白雪姫ひめ、スリーピング・ビューティ。いくら俺でもsleeping beauty の邦訳ほうやくを何というのかは知っている。両者に共通することと言えば何だ? 俺たちが今置かれている状況じょうきょうと合わせて考えてみたら答えは明快だ。なんてベタなんだ。ベタすぎるぜ、朝比奈さん、そして長門。そんなアホっぽい展開を俺は認めたくはない。絶対にない。

 俺の理性がそう主張する。しかし人間は理性のみによって生きる存在にあらず。長門ならそれを「ノイズ」と言うかもしれない。俺はハルヒの手を振りほどいて、セーラー服の肩をつかんで振り向かせた。

「なによ......」

「俺、実はポニーテール萌もえなんだ」

「なに?」

「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」

「バカじゃないの?」

 黒い目が俺を拒否きょひするように見える。抗議こうぎの声を上げかけたハルヒに、俺は強引ごういんに唇くちびるを重ねた。こういうときは目を閉じるのが作法なので俺はそれに則のっとった。ゆえに、ハルヒがどんな顔をしているのかは知らない。驚おどろきに目を見開いているのか、俺に合わせて目を閉じているのか、今にもぶん殴なぐろうと手を振りかざしているのか、俺に知るすべはない。だが俺は殴られてもいいような気分だった。賭かけてもいい。誰がハルヒにこうしたって、今の俺のような気分になるさ。俺は肩にかけた手に力を込める。しばらく離はなしたくないね。

 遠くでまた轟音ごうおんが響ひびき、巨人がまた校舎に殴る蹴けるをしているんだろ、とか思った次の瞬間しゅんかん俺は不意に無重力下に置かれ、反転し、左半身を嫌いやと言うほどの衝撃しょうげきが襲って、いくらなんでも払はらい腰ごしをかけることはないだろうと思いながら上体を起こして目を開き、見慣れた天井てんじょうを目にして固まった。


 そこは部屋。俺の部屋。首をひねればそこはベッドで、俺は床ゆかに直接寝転ねころがっている自分を発見した。着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団ふとんが半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開いているという寸法だ。

 思考能力が復活するまでにけっこうな時間がかかった。

 半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾いくばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点ついている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をぐるぐる円を描えがいて歩き回った。


 夢か? 夢なのか?

 見知った女と二人だけの世界に紛まぎれ込んだあげくにキスまでしてしまうという、フロイト先生が爆笑ばくしょうしそうな、そんな解わかりやすい夢を俺は見ていたのか。

 ぐあ、今すぐ首つりてえ!

 日本が銃じゅう社会化を免まぬれていることに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲はんいに自動小銃の一丁でもあれば、俺は躊躇ちゅうちょなく自分の頭を打ち抜ぬいていただろう。あれが朝比奈さんなら、まだ俺は自分の夢の内容について正しい自己分析ぶんせきが出来ていたものを、なのによりにもよってハルヒとは、俺の深層意識はいったい何を考えているんだ?

 俺はぐったりとベッドに着席し、頭を抱かかえた。夢だったとすると、俺は未いまだかつてないリアルなもんを見たことになる。汗あせばんだ右手、それに唇に残る温かくて湿しめった感触かんしょく。

 ......か、ここはすでにもとの世界ではないとか。ハルヒによって創造された新世界なのか。だったとして、俺にそんなことを確かめるすべはあるのか。

 ない。あるのかもしれないが思いつかない。というか何も考えたくない。自分の脳ミソがあんな夢を見せたなどと認めるくらいなら、世界がぶっ壊こわれたと言われたほうがだんだんマシに思えてきた。今すぐ誰だれかに逆ギレしたい。

 目覚し時計を持ち上げて現時刻を確認、午前二時十三分。

 ......寝ねよう。

 俺は布団を頭まで被かぶり、冴さえ渡わたった脳髄のうずいに睡眠すいみんを要求した。


 一睡いっすいも出来なかったけどな。

 そんなわけで俺は今、這はうようにして今日も不元気に坂道を登っている。正直、ツライ。途中とちゅうで谷口に会ってバカ話をされなかっただけマシと思おう。かんかん照りの太陽は律儀りちぎに核融合かくゆうごう全開だ。少しは休めばいいのに。

 来て欲しいときに来なかった睡魔すいまの野郎やろうが今頃いまごろ俺の頭の上を旋回せんかいしている。一限を何分聞いていられるか、かなり疑問だ。

 校舎が見えてきた時、俺は不覚にも立ち止まってしみじみと古ぼけた四階建てを眺ながめてしまった。汗だらけになった生徒たちが巣穴に向かうアリの行列のように吸い込まれていく玄関げんかんも、部室棟とうも、渡り廊下ろうかもちゃんとそのままだ。

 俺は足を引きずり引きずり、よたよたと階段を上がって懐なつかしむべき一年五組の教室へ向かい、開けっ放しの戸口から三歩歩いたところでまた立ち止まった。

 窓際まどぎわ、一番後ろの席に、ハルヒはすでに座っていた。何だろうね、あれ。頬杖ほおづえをつき、外を見ているハルヒの後頭部がよく見える。

 後ろでくくった黒髪くろかみがちょんまげみたいに突つき出していた。ポニーテールには無理がある。それ、ただくくっただけじゃないか。

「よう、元気か」

 俺は机に鞄かばんを置いた。

「元気じゃないわね。昨日、悪夢を見たから」

 ハルヒは平坦へいたんな口調で応こたえる。それは奇遇きぐうなことがあったもんだ。

「おかげで全然寝れやしなかったのよ。今日ほど休もうと思った日もないわね」

「そうかい」

 硬かたい椅子いすにどっかりと腰こしを下ろし、俺はハルヒの顔をうかがった。耳の上から垂れる髪かみが横顔を覆おおっていて表情が解りにくい。ただ、まあ、あんまり上機嫌じょうきげんではなさそうだ。少なくとも、顔の面だけは。

「ハルヒ」

「なに?」

 窓の外から視線を外さないハルヒに、俺は言ってやった。

「似合ってるぞ」