第七章
自称、宇宙人に作られた人造人間。自称、時をかける少女。自称、少年エスパー戦隊。それぞれに自称が取れる証拠を律儀にも俺に見せつけてくれた。三者三様の理由で、三人は涼宮ハルヒを中心に活動しているようだが、それはいい。いや、ちっともよくないが、百光年ほど譲っていいことにしてみても、さっぱり解らないことがある。
なぜ、俺なのだ?
宇宙人未来人エスパー少年がハルヒの周りをうようよするのは、古泉いわくハルヒがそう望んだからだと言う。
では、俺は?
なんだって俺はこんなけったいなことに巻き込まれているんだ? 百パーセント純正に普通人だぞ。突然ヘンテコな前世に目覚めでもしない限り履歴書に書けそうもない謎の力もなんにもない普遍的な男子高校生だぞ。
これは誰が書いたシナリオなんだ?
それとも誰かに怪しいクスリでも嗅がされて幻覚でも見ているのか。毒電波を受信しているだけなのか。俺を踊らせているのはいったい誰だ。
お前か? ハルヒ。
なーんてね。
知ったこっちゃねえや。
なぜ俺が悩まなくてはならんのだ。すべての原因はハルヒにあるらしい。だとしたら悩まなくてはならないのは俺ではなくハルヒだろう。俺がその困惑を肩代わりしなければならない理由がどこにある。ない。ないと言ったらない。俺がそう決めた。長門も古泉も朝比奈さんも、俺にあんなことを告白するくらいなら本人に直接何もかも話してやればいいのだ。その結果、世界がどうなろうとそれはハルヒの責任であって、俺は無関係だ。
せいぜい走り回ればいいさ。俺以外の人間がな。
季節は本格的に夏の到来を前倒しすることを決めたに違いない。俺は汗をダラダラ垂らしながら坂道を登りながら脱いだブレザージャケットで汗を拭いながらネクタイも外してシャツの第三ボタンまでを開けながらノロくさく足を動かしていた。朝にこんなに暑ければ昼にはどんなことになるのか解らないというくらい暑い。ナチュラルハイキングコースが学校への通学路になっている虚しさをかみしめる俺の肩が後ろから叩かれた。触るな、余計に暑くなるだろ、と振り返った先には谷口のにやけ面。
「よっ」
俺の横に並んだ谷口もさすがに汗まみれだった。うっとおしいよなあ、せっかくキメた髪型が汗でベタベタになっちまう、などと言いながらも元気そうな奴である。
「谷口」
一方的に興味ゼロの飼っている犬の話を始めた口を遮って俺は訊いた。
「俺って、普通の男子高校生だよな」
「はあ?」
そんな面白い冗談は初めて聞いたと言わんばかりのわざとらしい顔をする谷口。
「まず普通の意味を定義してくれ。話はそっからだな」
「そうかい」
訊かないほうがマシだった。
「嘘嘘、冗談。お前が普通かって? あのな、普通の男子生徒は、誰もいなくなった教室で女を押し倒したりはしねえ」
当たり前だが、覚えていたらしい。
「俺も男だ。根ほり葉ほり訊いたりしないだけの分別とプライドを持っている。だがな、解るだろ?」
全然。
「どうやっていつのまにああなったんだ。え? しかも俺様的美的ランクAマイナーの長門有希と」
Aマイナーだったのか。そんなことより、
「あれはだな......」
俺は釈明した。谷口が考えていると思われるストーリーは妄想、夢想、完全フィクションである。長門は気の毒にも部室を根城にしてしまったハルヒの被害者であり、文芸部の活動に支障をきたすようになった彼女は困りあぐねたあげく、俺に相談した。なんとか涼宮さんをここから退去させるわけにはいかないだろうか。真摯な訴えに同調すること大だった俺は気の毒な彼女を救うべく、ハルヒの目の届かない場所で共々に善後策を協議することにし、ハルヒの帰ったあとの教室でアイデアを出し合っていると、長門は持病の貧血を起こして倒れとっさに俺が彼女と床との衝突を防ごうとしたまさにその時闖入してきたのがお前、谷口である。まこと、真実とは明らかになってみれば下らないものであることよなあ。
「嘘つけ」
一蹴された。くそ、ところどころに真実を交えた完璧な作り話だと思ったのに。
「その嘘話を信じたとして、あの誰とも接点を持ちたがらない長門有希から相談を持ちかけられた時点でもうお前は普通じゃねえよ」
そんなに有名人だったのか、長門は。
「なにより涼宮の手下であるしな。お前が普通の男子生徒ってんなら、俺なんかミジンコ並に普通だぜ」
ついでに訊いておこう。
「なあ、谷口、お前、超能力を使えるか?」
「あーん?」
マヌケ面が第二段階に進行する。ナンパに成功した美少女がアブナイ宗教の勧誘員だったと知ったときのような顔をして、谷口は、
「......そうか。お前はとうとう涼宮の毒に侵されてしまいつつあるんだな......。短い間だったが、お前はいい奴だった。あんまり近づかないでくれ。涼宮が移る」
俺は谷口を小突き、谷口はぷふぅと吹き出してから表情を崩して笑い出した。こいつが超能力者と言うのなら、俺は今日から国連事務総長だ。
校門から校舎へと続く石畳を歩きながら、まあ一応感謝しておく。少なくとも話している間は暑さが少しは紛れたからな。
さしものハルヒも熱気にだけはいかんともしがたいらしく、くたりと机に寄りかかってアンニュイに彼方の山並みを見物していた。
「キョン、暑いわ」
そうだろうな、俺もだよ。
「扇いでくんない?」
「他人を扇ぐくらいなら自分を扇ぐわい。お前のために余分に使うエネルギーが朝っぱらからあるわけないだろ」
ぐんにゃりとしたハルヒは昨日の弁舌さわやかな面影もなく、
「みくるちゃんの次の衣装なにがいい?」
バニー、メイドと来たからな、次は......ってまだ次があるのかよ。
「ネコ耳? ナース服? それとも女王様がいいかしら?」
俺の頭の中で朝比奈さんを次々と着せ替えさせ、恥ずかしそうに顔を赤らめる小さな姿を想像して眩暈を感じた。可愛すぎる。
真剣に悩み始めた俺を、ハルヒは眉をひそめて睨めつけて耳の後ろの髪を払い、
「マヌケ面」
と決めつけた。お前が話を振ったんだろうが。多分その通りだろうから抗議するつもりはないが。セーラー服の胸元から教科書で風を送り込みながら、
「ほんと、退屈」
ハルヒは口を見事なへの字にした。まるでマンガのキャラクターみたいに。
輻射熱でこんがり焼けそうな午後の時間を丸まる使った地獄の体育が終わり、二時間も使ってマラソンさせんじゃねえよバカ岡部などとののしりながら俺たちは六組で濡れ雑巾になった体操着を着替えて、五組に戻ってきた。
早めに体育を切り上げていた女子どもの着替えは終わっていたが、後はホームルームを残すだけとあって運動部に直行する数人は体操着のままであり、運動部とは無縁のハルヒもなぜか体操着を着ていた。
「暑いから」
というのがその理由である。
「いいのよ、どうせ部室に行ったらまた着替えるから。今週は掃除当番だし、このほうが動きやすい」
頬杖をついた卵形の顔を外に向けたままハルヒは流れる入道雲を目で追っていた。
「そりゃ合理的だな」
朝比奈さんのコスプレは体操着でもいいな。コスプレと言わないか。正体不明でも一応は高校生をやってんだし。
「なんか妄想してるでしょ」
心を読んだとしか思えない的確なツッコミを放って俺をじろりと睨む。
「あたしが部室に行くまで、みくるちゃんにエロいことしちゃダメよ」
お前が来てからならいいのか、という言葉を飲み込んで、俺は新米の保安官に拳銃を突きつけられた西部時代の指名手配犯のようにぞんざいな仕草で両手を広げた。
いつものようにノックの返事を待って部室に入る。テレーズ人形のようにちょこんと椅子に座ったメイドさんが草原のヒマワリのような笑顔で出迎えてくれた。安らぐ。
テーブルの隅でページを繰る長門はさしずめなんかの間違いで春に咲いてしまったサザンカである。いやもう自分でも何の例えなんだが解らん。
「お茶煎れますね」
頭のカチューシャをちょいと直し朝比奈さんは上履きをパタパタ鳴らしてガラクタが溢れているテーブルに駆け寄った。急須にお茶っ葉を慎重な手つきで入れている。
俺はどっかりと団長机に腰を下ろして、いそいそとお茶の用意をする朝比奈さんを眺めて一人悦に入っていたが、その姿をみているうちに天啓が閃いた。
パソコンのスイッチを入れ、OSの起動を待つ。ポインタから砂時計マークが消えたのを見計らって、俺はフリーソフトのビューワを立ち上げると、自分で設定したバスワードを入力してフォルダ「MIKURU」の中身を表示させた。さすがコンピュータ研が泣きながら手放した新機種だけあってたちどころにサムネイルが表示、朝比奈さんのメイド画像コレクション。
朝比奈さんが湯飲みを用意している様子を片目で確認しながら、俺はその中の一枚を拡大し、さらに拡大。
ハルヒによって無理矢理取らされた雌豹ポーシング。大きくはだけた胸元から豊満な谷間がギリギリまで覗いている。左の白い丘に黒い点があった。もう一段階拡大表示。だいぶドットが荒れてきたが、確かにそれは星形をしていた。
「なるほど、これか」
「何か解ったんですか?」
机に湯のみが置かれるより前に俺は手際よく画像を閉じていた。このへん、抜かりはない。朝比奈さんがモニタを横から覗き込む。何もないんですよん。
「あれ、これ何です? このMIKURUってフォルダ」
ぐあ、抜かった。
「どうして、あたしの名前がついてるの? ね、ね、何が入ってるの? 見せて見せて」
「いやあ、これはその、何だ、さあ何なんでしょうね。きっと何でもないでしょう。うん、そうです、何でもありません」
「嘘っぽいです」
朝比奈さんは楽しそうに笑ってマウスに手を伸ばし、後ろから覆い被さるように俺の右手を取ろうとする。させるまじ、とマウスをつかむ俺。背中に柔らかい身体を押しつけてくれながら朝比奈さんは俺の肩の上に顔を出した。甘やかな吐息が頬にかかる。
「あの、朝比奈さん、ちょっと離れ......」
「見せて下さいよー」
左手を俺の肩にかけ、右手でマウスを追いかける朝比奈さんの上半身が背中でつぶれている感触に、俺はほとほと参るしかなかった。
クスクス笑いが耳朶を打ち、そのあまりの心地よさに俺はマウスを放しそうになり----、
「何やってんの、あんたら」
摂氏マイナス273度くらいに冷え切った声が俺と朝比奈さんを凍り付かせた。通学鞄を肩に引っ掛けた体操服のハルヒが父親の痴漢現場を目撃したような顔で立っていた。
止まっていた朝比奈さんの時間が動いた。メイド服のスカートをぎこちなく揺らせて俺の背中から離れた朝比奈さんはロボット歩きで後ずさり、バッテリー切れ寸前のASIMOのように、カクンと椅子に座り込んだ。蒼白の顔が今にも泣きそうになっている。
ふん、と鼻息を吹いて、ハルヒは足音高く机に近寄って俺を見下ろし、
「あんた、メイド萌えだったの?」
「なんのこった」
「着替えるから」
好きにしたらいい。朝比奈さんが煎れてくれた番茶を飲んでくつろぐ俺。
「着替えるって言ってるでしょ」
だから何だ。
「出てけ!」
ほとんど蹴飛ばされるように俺は廊下へ転がり、鼻先で荒々しくドアが閉められた。
「なんだ、あいつ」
湯飲みを置くヒマもなかった。俺は茶色の液体で濡れたシャツを指でつまみ上げて、ドアに背をあずけた。
この違和感はなんだろう。何か日常と違うところが感じられてならない。
「あー、そうか」
教室でも堂々と着替えをおっぱじめるハルヒが、わざわざ俺を部室から放りだしたのが引っかかっているのだ。
はて。どういう心境の変化だろ。それともいつしか恥じらいを覚えるお年頃になったのか。相変わらず五組の男は体育の時間前には脱兎のごとく教室から飛び出すのが習慣になっているから解りようもない。そういえばその習慣を植え付けた朝倉ももういないんだな。
持ったままの湯飲みをリノリウムの廊下に置いて、俺は片あぐらをかいた。
しばらく待って、部室でごそごそする気配が止まっても中に入れという声がかからず、俺がぼんやり膝を抱えて待つこと十分、
「どうぞ......」
朝比奈さんの小さな声がドア越しに聞こえた。本物のメイドよろしく扉を開けてくれた朝比奈さんの肩越しに、たいして面白くもなさそうに机に肘をついたハルヒの白く長い脚が見える。頭で揺れるウサ耳。懐かしのバニーガール姿。面倒くさいのか、カラーやカフス抜き、網タイツなしの生足で、しかし耳だけはしっかりつけたバニースタイルのハルヒが足を組んで座っていた。
「手と肩は涼しいけど、ちょっと通気性が悪いわね。この衣装」
と言って、ハルヒはずるずると湯飲みの茶をすする。長門がページをパラリとめくった。
バニーガールとメイドさんに囲まれ、どうしていいものやら見当もつかない。どっかでこの二人を客引きのバイトにでも斡旋したら儲かりそうだなと考えていると、
「うわ、なんですか」
笑顔のままで素っ頓狂な声をあげるという愉快な反応をしつつ、古泉が現れた。
「あれ、今日は仮装パーティの日でしたっけ。すみません。僕、何も準備してなくて」
話をややこしくするようなこと言うな。
「みくるちゃん、ここに座って」
ハルヒが自分の前のパイプ椅子を指し示す。朝比奈さんは明らかにおどおどと、おっかなびっくりハルヒに背を向けて椅子に座った。何をするのかと思ったら、おもむろにハルヒは朝比奈さんの栗色の髪を手にとって、三つ編みに結い始めた。
この場面だけを切り取れば、まるで妹の髪をセットしてやっている姉、みたいな美しい風情だが、いかんせん朝比奈さんは表情をこわばらせているし、ハルヒは仏頂面だ。単に三つ編みメイドにしたかっただけだろう。
底の浅い笑みでその風景を見ている古泉に俺は問い掛けた。
「オセロでもやるか」
「いいですね。久しぶりです」
俺たちが黒と白の争覇戦をひたすら繰り返している間(光の玉に変化出来るくせに古泉はやたら弱かった)、ハルヒは朝比奈さんの髪を結ったりほどいたりツインテールにしたり団子にしたりして遊び(ハルヒの手が触れるごとに小さく震える朝比奈さん)、長門は一瞬たりとも面を上げずに読書に浸っていた。
なんの集まりなんだか、ますます解らなくなってきた。
そう、その日、俺たちは何の変哲もないSOS団的活動をしてすごした。そこには空間を歪める情報がどうとか言う宇宙人も未来からの訪問者も青い巨人と赤い球体も何も関係なかった。やりたいことも取り立てて見当たらず、何をしていいのかも知らず、時の流れに身をまかすままのモラトリアムな高校生活。当たり前の世界、平凡な日常。
あまりの何もなさに物足りなさを感じつつも、「なあに、時間ならまだまだあるさ」と自分に言い聞かせてまた漫然と明日を迎える繰り返し。
それでも俺は充分楽しかった。無目的に部室に集まり、小間使いのようによく動く朝比奈さんを眺め、仏像のように動かない長門を眺め、人畜無害な微笑みの古泉を眺め、ハイとローの間を忙しく行き来するハルヒの顔を眺めているのは、それはそれで非日常の香りがして、それは俺にとって妙に満足感を与えてくれる学校生活の一部だった。クラスメイトに殺されそうになったり、灰色の無人世界で暴れる化け物に出会ったりなんぞ、そうそうありやしないだろうしな。あれが幻覚や催眠術や白昼夢でないとは断言しきれないが。
涼宮ハルヒとその一味みたいに呼ばれるのは業腹だが、色んな意味でこんな面白い連中と一緒にいられるのは俺だけだ。なぜ俺だけなのかという疑問はこの際脇に置いておく。そのうち俺以外の人間の参加もあるかもしれん。
そうさ、俺はこんな時間がずっと続けばいいと思っていたんだ。
そう思うだろ? 普通。
だが、思わなかった奴がいた。
決まっている。涼宮ハルヒだ。
夜になって、晩飯だの風呂だの明日の英語で和訳を当てられそうなところの予習だのを適当に済ませ、もう後は寝るしかない時間を時計の針が指したあたりで、俺は自室のベットに寝ころんで長門から押しつけられた厚い書物をひもといていた。たまには読書もいいかなと思って何の気なしに読み始めたのだが、これが存外面白くてすいすいページが進む進む。やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。いいね、読書は。
ただし一夜で読み切るにはあまりに文字量が多いので、俺は登場人物の一人が長々とした独白をちょうど終えたキリのいいところで本を置いた。そろそろ睡魔の野郎が目蓋の上でキャンプを張った頃合だ。長門の文字が刻まれた栞を挟んで本を閉じ、電気を消して布団に潜り込む。まどろみ数分、俺は寝付きよく眠りに落ちた。
ところで人が夢を見る仕組みをご存知だろうか。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類があって周期的に繰り返されるわけなのだが、眠りばなの数時間は深い眠り、ノンレム睡眠が多く訪れる。このときの脳は活動を休止しており、身体は眠っているが脳が軽く活動しているレム睡眠時にわれわれは夢を見るのである。朝方になってレム睡眠の構成比は増えていき、つまり夢というものはほとんど寝起き直前に続けて見るものなのだ。俺は毎日のように夢を見るが、ギリギリまで寝床にいていざ起きたら慌ただしく登校の用意をしなくてはならないからすぐに忘れてしまう。ふとしたきっかけで何年か前の見たことも忘れていた夢の内容を思い出すころもあって、いや人間の記憶の仕組みってのはまだ不思議で満ちているんだな。
閑話休題。そんなことはどうでもいいんだ。
頬を誰かが叩いている。うざい。眠い。気持ちよく眠っている俺を邪魔するな。
「......キョン」
まだ目覚ましは鳴ってないぞ。何度鳴ってもすぐ止めてしまうけどな。お袋に命じられた妹が面白半分に俺を布団から引きずり出すにはまだ余裕があるはずだ。
「起きてよ」
いやだ。俺は寝ていたい。胡乱な夢を見ているヒマもない。
「起きろってんでしょうが!」
首を絞めた手が俺を揺り動かし、後頭部を固い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。......固い地面?
上半身を跳ね上げる。俺を覗き込んでいたハルヒの顔がひょいと俺の頭を避けた。
「やっと起きた?」
俺の横で膝立ちになっているセーラー服のハルヒが、白い顔に不安を滲ませていた。
「ここ、どこだか解る?」
解る。学校だ。俺たちの通う県立北高校。その校門から靴脱ぎ場までの石畳の上。明かりひとつ灯っていない、夜の校舎が灰色の影となって俺の目の前にそびえ----。
違う。
夜空じゃない。
ただ一面に広がる暗い灰色の平面。単一色に塗り潰された燐光を放つ天空。月も星も雲さえない、壁のような灰色空。
世界が静寂と薄闇に支配されていた。
閉鎖空間。
俺はゆっくりと立ち上がった。寝間着がわりのスウェットではなく、ブレザーの制服が俺の身体をまとっている。
「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんな所にいて、隣りであんたが伸びていたのよ。どういうこと? どうしてあたしたち学校なんかにいるの?」
ハルヒが珍しくか細い声で訊いている。俺は返事の代わりに自分の身体にあちこち手を触れてみた。手の甲をつねった感触も、制服の手触りも、まるで夢とは思えない。髪の毛を二本ばかり引っ張って抜くと確かに痛い。
「ハルヒ、ここにいたのは俺たちだけか?」
「そうよ。ちゃんと布団で寝ていたはずなのに、なんでこんな所にいるわけ? それに空も変......」
「古泉を見なかったか?」
「いいえ。......でもどうして?」
「いや何となくだが」
ここが例の次元断層がどうのこうのしたとかの閉鎖空間なら、光の巨人と古泉たちもいるはずだ。
「とりあえず学校を出よう。どこかで誰かに会うかもしれない」
「あんた、あんまり驚かないのね」
驚いているさ。特にお前がここにいることにな。ここはお前が作り出す巨人の遊び場じゃなかったのか? それともやはりこれは異常にリアル感のある俺が見ている夢か。人気のない学校でハルヒと二人きり。フロイト博士ならなんと分析してくれるだろう。
ハルヒと付かず離れず並んで門扉から足を踏み出そうとした俺の鼻先が見えない壁に押された。ねっとりした感触には記憶がある。力を込めればある程度は進めるものの、すぐに固い壁にぶち当たる。透明な壁が校門のすぐ外に立ちはだかっていた。
「......何、これ」
ハルヒが両手を盛んに突き出しながら、目を見開いている。俺は学校の敷地ぞいに歩いて確認する。不可視の壁は歩いた範囲内では途切れることなく続いていた。
まるで、俺たちを学校に閉じ込めるように。
「ここからは出られないらしい」
風がそよとも吹いていない。大気すら動きを止めたようだ。
「裏門へ回ってみるか」
「それより、どこかと連絡が取れない? 電話でもあればいいんだけど、携帯は持ってないし」
ここが古泉が説明したとおりの閉鎖空間なら電話があっても無駄だろうが、俺たちはいったん校舎へ入ることにした。職員室に行けば電話くらいあるだろう。
電気のついていない、暗い校舎というのはなかなかに不気味なものだ。俺たちは土足のまま下駄箱の列を通り抜け、無音の校舎を歩く。途中、一階の教室のスイッチを入れてやると瞬きながら蛍光灯がついた。味も素っ気もない人工の光だが、それだけでも俺とハルヒは、ほっとした顔を見合わせた。
俺たちはまず宿直室へと向かい、誰もいないことを確認してから職員室へ、当然鍵がかかっていたので消火栓扉から消火器を取り出してその底を窓ガラスに叩きつけ、窓から部屋に侵入した。
「......通じてないみたい」
ハルヒが差し出す受話器を耳に当てる。何の音もしない。試しにダイヤルボタンを押してみたが反応なし。
職員室を後にした俺たちは、教室の電気を次々点灯させながら上を目差した。われらが一年五組の教室は最上階にある。そこから下界を覗けば、周囲がどうなってんのか解るかもしれない、とハルヒは言った。
校舎を歩いている間、ハルヒは俺ブレザーの裾をつまんでいた。頼りにしてくれるなよ、俺には何の力もないんだからな。それに怖いならいっそ腕にすがりついてくれよ。そっちのほうが気分が出る。
「バカ」
ハルヒは上目遣いで俺にきつい視線を送ったものの、指を離そうとはしなかった。
一年五組の教室に変わるところは何もない。出てきたときのままだ。黒板の消し跡も、画鋲の刺さったモルタルの壁も。
「......キョン、見て......」
窓に駆け寄ったハルヒはそう言ったきり絶句した。その隣で、俺もまた眼下の世界を見下ろした。
見渡す限りダークグレーの世界が広がっていた。山の中腹に建っている校舎の四階からは遠くの海岸線までを目にすることが出来る。左右百八十度、視界が届く範囲に、人間の生活を思わせる光はどこにもない。すべての家々は闇に閉ざされ、カーテン越しにでも光を漏らす窓が一つもなかった。この世から人間が残らず消えてしまったかのように。
「どこなの、ここ......」
俺たち以外の人間が消えたのではなく、消えたのは俺たちのほうだ。この場合、俺たちこそが誰もいない世界に紛れ込んだ闖入者になるのだろう。
「気味が悪い」
ハルヒは自分の肩を抱くようにして呟いた。
行く当てもない。そんなわけで俺たちは夕方に後にしたばかりの部室にやって来た。鍵は職員室からガメてきたので問題ない。
蛍光灯の下、俺たちは見慣れた根城に戻った安心感からどちらともなく安堵の息を漏らした。
ラジオをつけてみてもホワイトノイズすら入らず、風の音一つしない静まりかえった部室にポットから急須に注がれる湯の音だけがこだました。茶葉を入れ替える気にもならないので出がらしのお茶だ。煎れているのは俺。ハルヒは半ば呆然と灰色の外界を眺めている。
「飲むか?」
「いらない」
俺は自分のぶんの湯飲みを持ってパイプ椅子を引き寄せた。一口飲んでみる。朝比奈さんのお茶のが百倍美味い。
「どうなってんのよ、何なのよ、さっぱり解らない。ここはどこで、なぜあたしはこんな場所に来ているの?」
ハルヒは窓の前に立ったまま振り返らずに言った。後ろ姿がやけに細く見えた。
「おまけに、どうしてあんたと二人だけなのよ?」
知るものか。ハルヒはスカートと髪を翻し、俺を怒ったような顔で見ると、
「探検してくる」と言って、部室を出ようとする。腰をあげかけた俺に、
「あんたはここにいて。すぐ戻るから」
言い残してさっさと出て行った。うむ、そういうところはハルヒらしいな。溌《はつ》剌とした足音が遠ざかるのを聞きながら一人不味い茶を飲む前に、やっと奴が現れた。
小さな赤い光の玉。最初、ピンポン球くらいの大きさ、次いで除々に輪郭を広げた光は蛍のような明滅を繰り返して、最終的に人型を取った。
「古泉か?」
人の形をしていても人間には見えない。目も鼻も口もない、赤く輝く人の形。
「やあ、どうも」
能天気な声は、確かに赤い光の中から届く。
「遅かったな。もうちょっとまともな姿で登場すると思っていたが......」
「それも込みで、お話することがあります。手間取ったのは他でもありません。正直に言いましょう。これは異常事態です」
赤い光が揺らめいた。
「普通の閉鎖空間なら僕は難なく侵入出来ます。しかし今回はそうではありませんでした。こんな不完全な形態で、しかも仲間のすべての力を借り受けてやっとなんです。それも長くは持たないでしょう。我々に宿った能力が今にも消えようとしているんです」
「どうなってるんだ? ここにいるのはハルヒと俺だけなのか?」
その通りです、と古泉は言い、
「つまりですね、我々の恐れていたことがついに始まってしまったわけですよ。とうとう涼宮さんは現実世界に愛想を尽かして新しい世界を創造することに決めたようです」
「............」
「おかげで我々の上の方は恐慌状態ですよ。神を失ったこちらの世界がどうなるのか、誰にも解りません。涼宮さんが慈悲深ければこのまま何もなく存続する可能性もありますが、次の瞬間に無に帰することもありえます」
「何だってまた......」
「さあて」
赤い光が炎のようにふらふらと、
「ともかく涼宮さんとあなたはこちらの世界から完全に消えています。そこはただの閉鎖空間じゃない。涼宮さんが構築した新しい時空なんです。もしかしたら今までの閉鎖空間もその予行演習だったのかも」
面白い冗談だが、それのどこで笑っていいのか教えてくれ。はっはっはっ。
「笑い事じゃないですよ。大マジです。そちらの世界は今までの世界より涼宮さんの望むものに近づくでしょう。彼女が何を望んでいるかまでは知りようがありませんが。さあどうなるんでしょうね」
「それはいいとして、俺がここにいるのはどういうわけだ」
「本当にお解りでないんですか? あなたは涼宮さんに選ばれたんですよ。こちらの世界から唯一、涼宮さんが共にいたいと思ったのがあなたです。とっくに気付いていたと思いましたが」
古泉の光は今や電池切れ間近の懐中電灯並に光度が落ちていた。
「そろそろ限界のようです。このままいくとあなたがたとはもう会えそうにありませんが、ちょっとホッとしてるんですよ、僕は。もうあの <神人> 狩りに行くこともないでしょうから」
「こんな灰色の世界で、俺はハルヒと二人で暮らさないといかんのか」
「アダムとイヴですよ。産めや増やせばいいじゃないですか」
「......殴るぞ、お前」
「冗談です。おそらくですが、閉ざされた空間なのは今だけでそのうち見慣れた世界になると思いますよ。ただしこちらとまったく同じではないでしょうが。今やそちらが真実で、こっちが閉鎖空間だと言えます。どう違ってしまうのか、それを観測出来ないのは残念です。まあそっちに僕が生まれるようなことがあれば、よろしくしてやってください」
古泉はもとのピンポン球に戻りつつあった。人間の形が崩れ、燃え尽きた恒星のように収縮していく。
「俺たちはもうそっちに戻れないのか?」
「涼宮さんが望めば、あるいは。望み薄ですがね。僕としましては、あなたや涼宮さんともう少し付き合ってみたかったので惜しむ気分であります。SOS団での活動は楽しかったですよ。......ああ、そうそう、朝比奈みくると長門有希から伝言を言付かっていたのを忘れてました」
完全に消え失せる前に、古泉はこう言い残した。
「朝比奈みくるからは謝っておいて欲しいと言われました。『ごめんなさい、わたしのせいです』と。長門有希は、『パソコンの電源を入れるように』。では」
最後はあっさりしたものだった。蝋燭の火を吹き消したような。
俺は朝比奈さんの伝言とやらに頭をひねった。なぜ謝る。朝比奈さんが何をしたと言うんだ。考えるのは後にして、俺はもう一つの伝言に従ってパソコンのスイッチを押した。ハードディスクがシークする音を立てながらディスプレイにOSのロゴマークを浮かび上がらせ......なかった。ものの数秒で立ち上がるはずのOSがいつまでたっても表示されず、モニタは真っ黒のまま、白いカーソルだけが左端で点滅していた。そのカーソルが音もなく動き、そっけなく文字を紡ぐ。
YUKU.N > みえてる?
しばしほうけた後、俺はキーボードを引き寄せた。指を滑らせる。
『ああ』
YUKU.N > そっちの時空間とはまだ完全には連結を絶たれていない。でも時間の問題。すぐに閉じられる。そうなれば最後。
『どうすりゃいい』
YUKU.N > どうにもならない。こちらの世界の異常な情報噴出は完全に消えた。情報統合思念体は失望している。これで進化の可能性は失われた。
『進化の可能性ってな結局なんだったんだよ。ハルヒのどかが進化なんだ』
YUKU.N > 高次の知性とは情報処理の速度と正確さのこと。有機生命体に付随する知性は肉体から受ける錯誤とノイズ情報が多すぎて処理に制限がかかる。それゆえに一定以上のレベルで進化はストップする。
『肉体がなければいいのか』
YUKU.N > 情報統合思念体は初めから情報のみによって構成されていた。情報処理能力は宇宙が熱死を迎えるまで無限に上昇すると思われた。それは違った。宇宙に限りがあるように進化にも限りがあった。少なくとも情報による意識体である以上は。
『涼宮は、』
YUKU.N > 涼宮ハルヒは何もないところから情報を生み出す力を持っていた。それは情報統合思念体にもない力。有機体に過ぎない人間が一生かかっても処理しきれない情報を生み出している。この情報創造能力を解析すれば自立進化への糸口がつかめるかもしれないと考えた。
カーソルが瞬いた。どこかためらう気配を感じさせて、次の文字が流れる。
YUKU.N > あなたに賭ける。
『何をだよ』
YUKU.N > もう一度こちらへ回帰することを我々は望んでいる。涼宮ハルヒは重要な観察対象。もう二度と宇宙に生まれないかもしれない貴重な存在。私という個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。
文字が薄れてきた。弱々しく、カーソルはやけにゆっくりと文字を生んだ。
YUKU.N > また図書館に
ディスプレイが暗転しようとしていた。とっさに明度を上げてみても無駄。最後に長門の打ち出した文字が短く、
YUKU.N > sleeping beauty
カカカ、ハードディスクが回り出す音に俺は飛び上がりそうになる。アクセスランプが明滅し、ディスプレイには見慣れたOSのデスクトップ表示。パソコンの冷却ファンが立てる唸りだけがこの世の音のすべてだった。
「どうしろってんだよ。長門、古泉」
俺は腹の底からこみ上げるため息をついて、何気なく、本当に何気なく窓を見上げ、
青い光が窓の枠内を埋め尽くしていた。
中庭に直立する光の巨人。間近で見るそれはほとんど青い壁だった。
ハルヒが飛び込んできた。
「キョン! なにか出た!」
窓際に立ち尽くす俺の背中にぶつかるようにして止まったハルヒは隣に並んで、
「なにアレ? やたらでかいけど、怪物? 蜃気楼じゃないわよね」
興奮した口調だった。先ほどまでの悄然とした様子が嘘のよう。不安など感じていないように目を輝かせている。
「宇宙人かも、それか古代人類が開発した超兵器が現代に蘇ったとか! 学校から出られないのはあいつのせい?」
青い壁が身じろぎする。高層ビルを蹂躙する光景が脳裏でフラッシュバック、俺はとっさにハルヒの手を取ると部屋から飛び出した。
「な、ちょっ! ちょっと、何?」
転がるように廊下に出る、と同時に轟音が大気を震動させ、俺はハルヒを廊下に押し倒して覆い被さった。びりびりと部室棟が揺れる。硬く重たいものが地面に激突する衝撃と音が廊下を伝わって俺に届いた。その度合いからして巨人の攻撃目標になったのは部室棟ではない、多分向かいの校舎だ。
俺は口をパクパク開閉させているハルヒの手を握って起こし、走り出した。ハルヒは意外におとなしくついてくる。
汗ばんでいるのは俺の掌か、それともハルヒか。
古びた部室棟の中は埃の匂いすらしない。階段目指して全力ダッシュする俺は二回目の破壊音を聞く。
ハルヒの体温を掌に感じながら階段を駆け下り、中庭を横切ってスロープからグラウンドへ出た。横目でうかがったハルヒの顔は、俺の気の迷いなのかどうなのか、なぜか少し嬉しがっているように思える。まるでクリスマスの朝、枕元に事前に希望していた通りのプレゼントが置かれていることを発見した子供のように。
校舎からとりあえずの距離をとるまで走り続ける。振り仰いで見ると、巨人の大きさがさらによく解った。だいたい古泉に連れられて行った場所では、あいつは高層ビルほどもあったのだ。
巨人が手を振り上げ、拳を校舎に叩きつけた。最初の一撃によって縦に割れていた四階建ての安普請はいとも簡単に崩壊した。破片が四方八方に飛び散って耳障りな音を立てる。
二百メートルトラックの真ん中まで進んで、俺たちは脚を止めた。薄暗いモノトーンのキャンパスにそこだけが冗談のように青い巨大な人型が浮かび上がっている。
写真を撮るならこの情景だと俺は思った。朝比奈さんの胸をつかむコンピュータ研の部長ではなく、ましてや朝比奈さんのコスプレ姿でもなく、この映像こそをホームページに貼り付けるべきだろう。
そんなことを考えている俺の耳にハルヒの早口が届いた。
「あれさ、襲ってくると思う? あたしには邪悪なもんだとは思えないんだけど。そんな気がするのね」
「わからん」
答えながら俺は考えていた。最初に俺を閉鎖空間へと導いた古泉は説明した。 <神人> の破壊活動をほったらかしにしていれば、やがて世界が置き換わってしまう、と。この灰色世界が今までいた現実世界に取って代わってしまい、そうして......。
どうなってしまうと言うのだろう。
さっきの古泉によると、新しい世界がハルヒによって創造されるのだと言うことらしい。そこには俺の知っている朝比奈さんや長門はいるのだろうか。それか、目の前にいる <神人> が自在に闊歩し、宇宙人や未来人や超能力者やらが普通にそこらをブラブラしているような、非日常的な風景が常識として迎え入れられるような世界になるのか。
そんな世界になったとして、そこで俺の果たす役割は何なのか。
考えるだけ無駄のようにも思える。解るわけがないからだ。ハルヒが何を考えているのかなんて、他人の思考を読むほど俺は達者な人間ではない。俺には何の芸もない。
考え込む俺の耳元でハルヒの朗らかな声が、
「何なんだろ、ホント。この変な世界もあの巨人も」
お前が生み出したものらしいぜ、ここも、あいつもな。それより俺が訊きたいのは、なぜ俺を巻き込むんだかということだ。アダムとイヴだと? アホらしい。そんなベタな展開を俺は望めない。認めてたまるか。
「元の世界に戻りたいと思わないか?」
棒読み口調で俺は言った。
「え?」
輝いていたハルヒの目が曇ったように見えた。灰色の世界でも際だつ白い顔が俺に向く。
「一生こんなところにいるわけにもいかないだろ。腹が減っても飯食う場所がなさそうだぜ、店も開いてないだろうし。それに見えない壁、あれが周囲を取り巻いているんだとしたら、そこから出ていくことも出来ん。確実に飢え死にだ」
「んー、なんかね。不思議なんだけど、ぜんぜんそのことは気にならないのね。なんとかなるような気がするのよ。自分でも納得出来ない、でもどうしてだろ、今ちょっと楽しいな」
「SOS団はどうするんだ。お前が作った団体だろう。ほったらかしかよ」
「いいのよ、もう。だってほら、あたし自身がとっても面白そうな体験をしているんだし。もう不思議なことを探す必要もないわ」
「俺は戻りたい」
巨人は校舎の解体作業の手を休めていた。
「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだたんだな。アホの谷口や国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含めてもいい」
「......何言ってんの?」
「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」
ハルヒは少しうつむき加減に、
「会えるわよきっと。この世界だっていつまでも闇に包まれているわけじゃない。明日になったら太陽だって昇ってくるわよ。あたしには解るの」
「そうじゃない。この世界でのことじゃないんだ。元の世界のあいつらに、俺は会いたいんだよ」
「意味わかんない」
ハルヒは口を尖らせて俺を見上げていた。せっかくのプレゼントを取り上げられた子供のような怒りと悲哀が混じった微妙な表情だ。
「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」
「思ってたとも」
巨人が歩き出した。崩れ落ちることなく残っていた校舎の残骸を蹴り倒して中庭を進んでくる。渡り廊下に手刀をかまし、部室棟にもパンチを入れる。吹き飛んでいく俺たちの学校。俺たちの部室。
ハルヒの頭越しに、その巨人とは別の方角にも青い壁が立ち上がってくるのが見えた。一つ、二つ、三つ......。五匹目まで数えて、俺はカウントを放棄した。
光の巨人たちは、赤い光玉に邪魔されることもなく、灰色の世界を好きなように破壊し始め、し続けていた。その姿がどこか喜々として見えるのは俺の精神上の問題だろうか。奴らが手足を振り上げるたびに空間が削り取られるように、そこに見えていた風景が消え去っていく。
もう校舎の跡形は半分も残っていない。
閉鎖空間が拡大しているのかどうか俺は感じ取ることが出来ないし、また拡大しまくったこの空間がやがて新たな現実空間に成り果てるのかどうかも知らん。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。今の俺は、電車の隣に座った酔っぱいのおっさんが「誰にも言うなよ、実はわしは宇宙人じゃ」と言ったところで信じてしまえる。すでに俺の経験値は一ヶ月前の三倍の数値くらいには膨れあがっているのだ。
俺に出来ることは何か。一ヶ月前なら無理でも、今の俺になら出来ることだ。ヒントならすでにいくつも貰ってある。
俺は決意して、そして言った。
「あのな、ハルヒ。俺はここ数日でかなり面白い目にあってたんだ。お前は知らないだろうけど、色んな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、実際そのように行動していた。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」
俺はハルヒの肩をつかもうとして、まだ手を握りしめたままだったことに気付いた。ハルヒは、こいつは何か悪いものでも食べたのかと言いたそうな顔をしていた。
つい、と視線をそらしてハルヒは校舎をめちゃくちゃに破壊している巨人を、そうするのが当然だと言うように眺めた。
その横顔は、あらためて見ると年相応の線の柔らかさが浮き彫りになっている。長門は言った、「進化の可能性」と。朝比奈さんによると「時間の歪み」で、古泉に至っては「神」扱いだ。では俺にとってはどうなのか。涼宮ハルヒの存在を、俺はどう認識しているのか?
ハルヒはハルヒであってハルヒでしかない、なんてトートロジーでごまかすつもりはない。ないが、決定的な解答を、俺は持ち合わせてなどいない。そうだろ? 教室の後ろにいるクラスメイトを指して「そいつは俺にとって何なのか」と問われてなんと答えりゃいいんだ? ......いや、すまん。これもごまかしだな。俺にとって、ハルヒはただのクラスメイトじゃない。もちろん「進化の可能性」でも「時間の歪み」でもましてや「神様」でもない。あるはずがない。
巨人が振り向いた。グラウンドへと。顔も目もないのに、俺は確かに視線を感じた。歩き出す。その一歩は何メートルあるのか、緩慢な歩みの割に俺たちに近づく姿が巨大さを増してくる。
思い出せ。朝比奈さんは何と言ったか。その予言を。それから長門が最後に俺に伝えたメッセージ。白雪姫、スリーピング・ビューティ。いくら俺でもsleeping beauty の邦訳を何というのかは知っている。両者に共通することと言えば何だ? 俺たちが今置かれている状況と合わせて考えてみたら答えは明快だ。なんてベタなんだ。ベタすぎるぜ、朝比奈さん、そして長門。そんなアホっぽい展開を俺は認めたくはない。絶対にない。
俺の理性がそう主張する。しかし人間は理性のみによって生きる存在にあらず。長門ならそれを「ノイズ」と言うかもしれない。俺はハルヒの手を振りほどいて、セーラー服の肩をつかんで振り向かせた。
「なによ......」
「俺、実はポニーテール萌えなんだ」
「なに?」
「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」
「バカじゃないの?」
黒い目が俺を拒否するように見える。抗議の声を上げかけたハルヒに、俺は強引に唇を重ねた。こういうときは目を閉じるのが作法なので俺はそれに則った。ゆえに、ハルヒがどんな顔をしているのかは知らない。驚きに目を見開いているのか、俺に合わせて目を閉じているのか、今にもぶん殴ろうと手を振りかざしているのか、俺に知るすべはない。だが俺は殴られてもいいような気分だった。賭けてもいい。誰がハルヒにこうしたって、今の俺のような気分になるさ。俺は肩にかけた手に力を込める。しばらく離したくないね。
遠くでまた轟音が響き、巨人がまた校舎に殴る蹴るをしているんだろ、とか思った次の瞬間俺は不意に無重力下に置かれ、反転し、左半身を嫌と言うほどの衝撃が襲って、いくらなんでも払い腰をかけることはないだろうと思いながら上体を起こして目を開き、見慣れた天井を目にして固まった。
そこは部屋。俺の部屋。首をひねればそこはベッドで、俺は床に直接寝転がっている自分を発見した。着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団が半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開いているという寸法だ。
思考能力が復活するまでにけっこうな時間がかかった。
半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をぐるぐる円を描いて歩き回った。
夢か? 夢なのか?
見知った女と二人だけの世界に紛れ込んだあげくにキスまでしてしまうという、フロイト先生が爆笑しそうな、そんな解りやすい夢を俺は見ていたのか。
ぐあ、今すぐ首つりてえ!
日本が銃社会化を免れていることに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲に自動小銃の一丁でもあれば、俺は躊躇なく自分の頭を打ち抜いていただろう。あれが朝比奈さんなら、まだ俺は自分の夢の内容について正しい自己分析が出来ていたものを、なのによりにもよってハルヒとは、俺の深層意識はいったい何を考えているんだ?
俺はぐったりとベッドに着席し、頭を抱えた。夢だったとすると、俺は未だかつてないリアルなもんを見たことになる。汗ばんだ右手、それに唇に残る温かくて湿った感触。
......か、ここはすでにもとの世界ではないとか。ハルヒによって創造された新世界なのか。だったとして、俺にそんなことを確かめるすべはあるのか。
ない。あるのかもしれないが思いつかない。というか何も考えたくない。自分の脳ミソがあんな夢を見せたなどと認めるくらいなら、世界がぶっ壊れたと言われたほうがだんだんマシに思えてきた。今すぐ誰かに逆ギレしたい。
目覚し時計を持ち上げて現時刻を確認、午前二時十三分。
......寝よう。
俺は布団を頭まで被り、冴え渡った脳髄に睡眠を要求した。
一睡も出来なかったけどな。
そんなわけで俺は今、這うようにして今日も不元気に坂道を登っている。正直、ツライ。途中で谷口に会ってバカ話をされなかっただけマシと思おう。かんかん照りの太陽は律儀に核融合全開だ。少しは休めばいいのに。
来て欲しいときに来なかった睡魔の野郎が今頃俺の頭の上を旋回している。一限を何分聞いていられるか、かなり疑問だ。
校舎が見えてきた時、俺は不覚にも立ち止まってしみじみと古ぼけた四階建てを眺めてしまった。汗だらけになった生徒たちが巣穴に向かうアリの行列のように吸い込まれていく玄関も、部室棟も、渡り廊下もちゃんとそのままだ。
俺は足を引きずり引きずり、よたよたと階段を上がって懐かしむべき一年五組の教室へ向かい、開けっ放しの戸口から三歩歩いたところでまた立ち止まった。
窓際、一番後ろの席に、ハルヒはすでに座っていた。何だろうね、あれ。頬杖をつき、外を見ているハルヒの後頭部がよく見える。
後ろでくくった黒髪がちょんまげみたいに突き出していた。ポニーテールには無理がある。それ、ただくくっただけじゃないか。
「よう、元気か」
俺は机に鞄を置いた。
「元気じゃないわね。昨日、悪夢を見たから」
ハルヒは平坦な口調で応える。それは奇遇なことがあったもんだ。
「おかげで全然寝れやしなかったのよ。今日ほど休もうと思った日もないわね」
「そうかい」
硬い椅子にどっかりと腰を下ろし、俺はハルヒの顔をうかがった。耳の上から垂れる髪が横顔を覆っていて表情が解りにくい。ただ、まあ、あんまり上機嫌ではなさそうだ。少なくとも、顔の面だけは。
「ハルヒ」
「なに?」
窓の外から視線を外さないハルヒに、俺は言ってやった。
「似合ってるぞ」