第六章
その懸案事項は封筒の形をして昨日に引き続き俺の下駄箱に入っていた。なんだろう、下駄箱に手紙を入れるのが最近の流行なのか?
しかし今度のブツは一味違うぞ。二つに折ったノートの切れ端の名無しではない。少女マンガのオマケみたいな封筒の裏にちゃんと名前が記入されている。几帳面なその文字は、俺の目がどうにかしているのでもない限り、
朝比奈みくる
と、読めた。
封筒を一動作でブレザーのポケットに収めた俺が男子トイレの個室に飛び込んで封を切ったところ、印刷された少女キャラのイラストが微笑む便箋の真ん中に、
『昼休み、部室で待ってます みくる』
昨日あんな目にあったおかげで、俺の人生観と世界観と現実感はまとめてバレルロールを描きつつ現在アクロバット中だ。
ほいさと出かけて行って、また生命の危機に直面するのは御免こうむりたい。
しかしここで行かないわけにはいくまい。誰あろう、朝比奈さんの呼び出しである。この手紙の主が朝比奈さんであると断言する根拠はないが、俺はさっぱり疑わなかった。いかにもこんな回りくどいことをしそうな人だし、可愛らしいレターセットにいそいそとペンを走らせている光景はまさしく彼女に似つかわしいじゃないか。それに昼休みの部室なら、長門もいるだろうし、何かあればあいつがなんとかしてくれるさ。
情けないとか言わんでくれ。こちとら一介の通常な男子高生に過ぎないんだからよ。
四時限が終わるや俺は、休み時間の間から意味深な視線を送ってくる谷口に話かけられたり一緒に弁当を食べようと国木田が近寄ったり職員室行って朝倉の引っ越し先を調べようとかハルヒが言い出す前に、弁当も持たずに教室から脱出した。部室まで早歩き。
まだ五月だと言うのに照りつける陽気はすでに夏の熱気、太陽は特大の石炭でもくべられたみたいに嬉しそうにエネルギーを地球へ注いでいる。今からこれじゃ夏本番になると日本は天然サウナ列島になるんじゃないだろうか。歩いているだけで汗でパンツのゴムが濡れてくる。
三分とかからず、俺は文芸部の部室前に立つ。とりあえずノック。
「あ、はーい」
確かに朝比奈さんの声だった。間違いない。俺が朝比奈さんの声を聞き間違えるわけがない。どうやら本物だ。安心して、入る。
長門はいなかった。それどころか朝比奈さんもいなかった。
校庭に面した窓にもたれるようにして、一人の女性が立っていた。白いブラウスと黒のミニタイトスカーとをはいている髪の長いシルエット。足許は来客用のスリッパ。
その人は俺を見ると、顔中に喜色を浮かべて駆け寄り、俺の手を取って握りしめた。
「キョンくん......久しぶり」
朝比奈さんじゃなかった。朝比奈さんにとてもよく似ている。本人じゃないかと錯覚するほど似ている。実際、本人としか思えない。
でもそれは朝比奈さんではなかった。俺の朝比奈さんはこんなに背が高くない。こんなに大人っぽい顔をしていない。ブラウスの生地を突き上げる胸が一日にして三割増になったりはしない。
俺の手を胸の前で捧げ持って微笑んでいるその人は、どうやったって二十歳前後だろう。中学生のような朝比奈さんとは雰囲気が違う。そかしそれでもなお、彼女は朝比奈さんとウリ二つだった。何もかもが。
「あの......」
俺はとっさに思いつく。
「朝比奈さんのお姉さん......ですか?」
その人は可笑しそうに目を細めて肩を震わせた。笑った顔まで同じだ。
「うふ、わたしはわたし」と彼女は言った。
「朝比奈みくる本人です。ただし、あなたの知っているわたしより、もっと未来から来ました。......会いたかった」
俺はバカみたいな顔をしていたに違いない。そうだ、確かに目の前の女性が今から何年後かの朝比奈さんだと言われると一番すっきりする。朝比奈さんが大人になったらこんな感じの美人になるだろうなというそのまんまな美人がここにいた。ついでに言うと身長も伸びてさらにグラマー度がアップしている。まさかここまでになるとは。
「あ、信用してないでしょ?」
その秘書スタイルの朝比奈さんはいたずらっぽく言うと、
「証拠を見せてあげる」
やにわにブラウスのボタンを外しだした。第二ボタンまでを外してしまうと、面食らう俺に向けて胸元を見せつけ、
「ほら、ここに星形のホクロがあるでしょう? 付けボクロじゃないよ。触ってみる?」
左胸のギリギリ上に確かにそんな形のホクロが艶かしく付いていた。白い肌に一つだけ浮かんだアクセント。
「これで信じた?」
信じるも何も、俺は朝比奈さんのホクロの位置なんか覚えちゃいない。そんな際どい部分まで見ることが出来たのは、バニーガールのコスプレをしていた時と、不可抗力で着替えを覗いてしまった時くらいだが、どっちにしたってそこまで細かいところを観察などしていない。俺がその旨を伝えると、魅惑の朝比奈さんは、
「あれ? でもここにホクロがあるって言ったのはキョンくんだったじゃない。わたし、自分でも気づいていなかったのに」
不思議そうに首を傾げ、次に彼女は驚きに目を見開き、それから急激に赤くなった。
「あ......やだ、今......あっ、そうか。この時はまだ......うわっ、どうしよっ」
シャツの前をはだけたまま、その朝比奈さんは両手で頬を包んで首を振った。
「わたし、とんでもない勘違いを......ごめんなさい! 今のは忘れて下さい!」
そう言われてもなあ。それより早くボタンとめてくれないかなあ。どこ見たらいいのか迷います。
「解りました。とにかく信じますから。今の俺はたいていのことは信じてしまえるような性格を獲得したので」
「は?」
「いえ、こちらの話です」
まだ赤らむ頬を押さえていた年齢不詳の朝比奈さんは、どうしてもそっちに吸い寄せられてしまう俺の目線に気づいて、慌ててボタンをとめた。居住まいを正し、こほんと乾いた咳を一つ落として、
「この時間平面にいるわたしが未来から来たって、本当に信じてくれました?」
「もちろん。あれ、そしたら今、二人の朝比奈さんがこの時代にはいるってことですか?」
「はい。過去の......わたしから見れば過去のわたしは、現在教室でクラスメイトたちとお弁当中です」
「そっちの朝比奈さんはあなたが来ていることを......」
「知りません。実際知りませんでした。だってそれ、わたしの過去だもの」
なるほど。
「あなたに一つだけ言いたいことがあって、無理を言ってまたこの時間に来させてもらったの。あ、長門さんには席を外してもらいました」
長門のことだから、この朝比奈さんを見ても瞬き一つしなかったことだろう。
「......朝比奈さんは長門のことを知ってるんですか?」
「すみません。禁則事項です。あ、これ言うのも久しぶりですね」
「俺は先日聞いたばかりですが」
そうでした、と自分の頭をぽかりと叩いて朝比奈さんは舌を出した。こんなところは間違いようもなく朝比奈さんである。
が、急に真面目な顔になると、
「あまりこの時間にとどまれないの。だから手短に言います」
もう何でも言ってくれ。
「白雪姫って、知ってます?」
俺は今や背丈のそう変わらない朝比奈さんを見つめた。ちょっと潤みがちの黒い瞳。
「そりゃ知ってますけど......」
「これからあなたが何か困った状態に置かれたとき、その言葉を思い出して欲しいんです」
「七人の小人とか魔女とか毒リンゴとかの、あれですか?」
「そうです。白雪姫の物語を」
「困った状態なら昨日あったばかりですが」
「それではないんです。もっと......そうですね。詳しくは言えないけど、その時、あなたの側には涼宮さんもいるはずです」
俺と? ハルヒが? 揃ってやっかいごとに巻き込まれるって? いつ、どこで。
「......涼宮さんはそれを困った状況とは考えないかもしれませんが......あなただけじゃなくて、わたしたち全員にとって、それは困ることなんです」
「詳しく教えてもらうわけには----いかないんでしょうね」
「ごめんなさい。でもヒントだけでもと思って。これがわたしの精一杯」
大人朝比奈さんはちょっと泣きが入っている顔をした。ああ、確かに朝比奈さんだな、これは。
「それが白雪姫なんですか」
「ええ」
「覚えておきますよ」
俺がうなずくと朝比奈さんは、もうちょっとだけ時間があります、と言って、懐かしそうに部室を見渡し、ハンガーラックにかかっていたメイド服を手にして愛おしげに撫でた。
「よくこんなの着れたなあ、わたし。いまなら絶対ムリ」
「いまの格好もOLのコスプレみたいですよ」
「ふふ、制服を着るわけにはいかなかったから、ちょっと教師風にしてみました」
何を着ても似合う人というのはいるものだ。試しに訊いてみる。
「ハルヒには他にどんな衣装を着せられたんです?」
「内緒。恥ずかしいもん。それに、そのうち解るでしょう?」
スリッパをペタペタ鳴らしながら朝比奈さんは俺の目の前に立つと、妙に潤んだ目とまだ少し赤い頬で、
「じゃあ、もう行きます」
もの問いたげに、朝比奈さんは真正面から俺を見つめ続ける。唇が何かを求めるように動き、俺はキスでもしたほうがいいのかなあと思って朝比奈さんの肩を抱こうとして----逃げられた。
ひょいと身をひねった朝比奈さんは、
「最後にもう一つだけ。わたしとはあまり仲良くしないで」
鈴虫のため息のような声。
入り口に走った朝比奈さんに、俺は声をかけた。
「俺も一つ教えてください!」
ドアを開こうとしてピタリと止まる朝比奈さんの後姿。
「朝比奈さん、今、歳いくつ?」
巻き毛を翻して朝比奈さんは振り返った。見る者すべてを恋に落としそうな笑顔だった。
「禁則事項です」
ドアが閉まった。多分、追いかけていっても無駄なんだろうな。
はー、それにしても朝比奈さんがあんなに美人になるとは、と考えて、俺は先ほど彼女が最初に行ったセリフを思い出した。何と言った? 「久しぶり」。この言葉が表す意味は一つしかない。つまり朝比奈さんは長らく俺に会っていなかったのだ。と言うことは。
「そうか。そうだよな」
未来人であるところの朝比奈さんは、遠からず元いた時代に戻ってしまうのだ。それから何年も経って再び相まみえたのが、つまり今さっきなのだ。
いったい彼女にとってどれくらいの時間が経過していたのだろうか。あの成長ぶりから見ると、五年......三年くらいか。女ってのは高校を出ると劇的に変化するからな。それまで秀才タイプの目立たない女だったのに大学に入った途端にサナギから羽化したブラジル蝶みたいになってしまった従姉妹を思い浮かべて、そういやそもそも朝比奈さんの実年齢を知らないな。本当に十七ってことはないと思うのだが。
腹が減った。教室に戻ろう。
「............」
長門有希が冷凍保存したような普段通りの顔で入ってきた。ただし、眼鏡はない。ガラス越しではない生の視線が直接俺を射抜く。
「よお、来るとき朝比奈さんに良く似た人とすれ違わなかったか」
冗談混じりに言った言葉に長門は、
「朝比奈みくるの異時間同位体。朝に会った」
衣擦れの音をまったく立てずに長門はパイプ椅子に座りテーブルの上で本のページを広げた。
「今はもういない。この時空から消えたから」
「ひょっとしてお前も時間移動とか出来るのか? その情報ナントカ体も」
「わたしには出来ない。でも時間移動はそんなに難しいことではない。今の時代の地球人はそれに気づいていないだけ。時間は空間と同じ。移動するのは簡単」
「コツを教えてもらいたいね」
「言語では概念を説明できないし理解も出来ない」
「そうかい」
「そう」
「そりゃ、しょうがないな」
「ない」
山彦と会話しているようなむなしさを感じ、俺は今度こそ教室に戻ることにした。飯食う時間あるかな。
「長門、昨日はありがとよ」
無機質な表情がほんの少しだけ動いた。
「お礼ならいい。朝倉涼子の異常動作はこっちの責任。不手際」
前髪がわずかに動いた。
ひょっとして頭を下げたのだろうか。
「やっぱり眼鏡はないほうがいいぞ」
返答はなかった。
なんとか超特急でオカズだけでも食おうと弁当の待ちわびる教室の前で、俺はハルヒの妨害にあい、ついに食いっぱぐれることになった。これも運命というやつなのだろう。すでに諦観の域に達しつつある俺である。
どうやら廊下で俺を待っていたらしいハルヒは、苛立ちげに、
「どこ行ってたのよ! すぐ帰ってくると思ってご飯食べないで待ってたのに!」
そんな心から怒るんじゃなくて幼馴染みが照れ隠しで怒っている感じで頼む。
「アホなことほざいてないで、ちょっとこっち来て」
俺の腕をとって関節技を決めたハルヒはまた俺を薄暗い階段の踊り場へと拉致した。
とにかく腹が減っていた。
「さっき職員室で岡部に聞いたんだけどね、朝倉の転校って朝になるまで誰も知らなかったみたいなのよ。朝イチで朝倉の父親を名乗る男から電話があって急に引っ越すことになったからって、それもどこだと思う? カナダよカナダ。そんなのあり? 胡散臭すぎるわよ」
「そうかい」
「それでわたし、カナダの連絡先を教えてくれって言ったのよ。友達のよしみで連絡したいからって」
まともに口をきいたこともないくせに。
「そしたらどうよ、それすら解らないって言うのよ? 普通引っ越し先くらい伝えるでしょ。これは何かあるに違いないわ」
「ねえよ」
「せっかくだから引っ越し前の朝倉の住所を訊いてきた。学校が終わったら、その足で行くことにするわ。何か解るかもしれない」
相変わらず人の話を聞かない奴だ。
ま、別に止めないことにする。無駄骨を折るのはハルヒであって、俺ではない。
「あんたも行くのよ」
「なんで?」
ハルヒは肩を怒らせて、火炎を吹く前の怪獣のように呼気を吸い上げ、廊下にまで届くような大声で叫んだ。
「あんたそれでもSOS団の一員なの!」
ハルヒの伝言を仰せつかった俺はその場を這々の体で退散し、部室へと取って返すと長門に今日は俺もハルヒも部室には来ないことを伝え、それを朝比奈さんと古泉が放課後に来たら教えるように言い、しかしこの寡黙な宇宙人だけではどんな伝言ゲームが結果になるか知れたものではなかったので、部室に余っていた藁半紙のビラの裏に「SOS団、本日自主休日 ハルヒ」とマジックで書いてドアの画鋲で留めた。
古泉はともかく朝比奈さんがメイド服に着替える手間くらいは省いてあげるべきだろう。
そんなことをしていたおかげで、俺は徹底的に空腹のまま、五限の始まりの鐘を聞く羽目になった。合間の休み時間に食ったけどな。
女子と肩を並べて下校する、なんてのは実に学生青春ドラマ的で、俺だってそういう生活を夢に見なかったかと言うと嘘になる。俺は現在その夢を実現させているわけなのだが、ちっとも楽しくないのはどうしたことだろう。
「何か言った?」
俺の左隣でメモを片手に大またで歩いているハルヒが言った。俺には、「何か文句あるの?」とでも言っているように思える。
「いや何も」
坂をずんずんと下がって私鉄の線路沿いを歩いている。もう少し行けば光陽園駅だ。
そろそろ長門の住んでいるマンションだなと思ったら、ハルヒは本当にその方角を目差し、ついに見覚えのある新築の分譲マンションの前で止まった。
「ここの505号室に住んでいたみたい」
「なるほどね」
「何がなるほどよ」
「いや何でも。それよりどうやって入るつもりだ。玄関も鍵付だぜ」
と、俺はインターフォン横のテンキーの存在を教えてやる。
「あれで数字を入力して開ける仕組みだろ。お前ナンバー知ってるのか?」
「知らない。こういうときは持久戦ね」
何を待つというのか、と思っていたら、そう待つこともなかった。買物に行くらしいオバサンが中から扉を開けて、棒立ちしている俺たちを気味悪そうに眺めながら出て行き、その扉が閉まりきらないうちにハルヒがつま先を押し込んでストッパー代わりにする。
あまりスマートな手口とは言えないな。
「早く来なさいよ」
引きずり込まれるようにして俺はマンションの玄関ホールに立っていた。ちょうど一階に止まっていたエレベータに乗り込む。黙って階数表示を見つめるのがマナーだ。
「朝倉なんだけど」
どうやらハルヒはそんなマナーなどおかまいなしのようだ。
「おかしなことがまだあるのよね。朝倉って、この市内の中学から北高に来たんじゃないらしいのよ」
そりゃまあそうだろうが。
「調べてみたらどこか市外の中学から越境入学したわけ。絶対おかしいでしょ。別に北高は有名進学校でもなんでもない、ただのありふれた県立高校よ。なんでわざわざそんなことするわけ?」
「知らん」
「でも住居はこんなに学校の近くにある。しかも分譲よ、このマンション。賃貸じゃないのよ。立地もいいし、たかいのよ、ここ。市外の中学へここから通っていたの?」
「だから、知らん」
「朝倉がいつからここに住んでいたのか調べる必要があるわね」
五階に到着し、505号室の前で俺たちはしばらく物言わぬ扉を眺めた。あったかもしれない表札は今は抜き取られ、無言で空き部屋であることを示している。ハルヒはノブを捻っていたが、当然開くはずもなく。
どうにかして中に入れないかしらと腕を組むハルヒの横で俺はあくびをかみ殺していた。我ながら時間の無駄なことをしていると思う。
「管理人室に行きましょう」
「鍵貸してくれるとは思えないけどな」
「そうじゃなくて、朝倉がいつからここに住んでいたのか聞くためよ」
「あきらめて帰ろうぜ。そんなん解ったところでどうしようもないだろ」
「ダメ」
俺たちはエレベータで一階に取って返し、玄関ホールの脇の管理人室へと向かった。ガラス戸の向こうは無人だったが、壁のベルを鳴らすと、ややあって白髪をふさふさとさせた小さな爺さんがゆっくりゆっくり現れた。
爺さんが何かを言うより早く、
「あたしたちここに住んでいた朝倉涼子さんの友達なんですけど、彼女ったら急に引っ越しちゃって連絡先とか解んなくて困ってるんです。どこに引っ越すとか聞いてませんか? それからいつから朝倉さんがここに入ってたのかそれも教えて欲しいんです」
こういう常識的な口調も出来るのかと俺が感嘆していると、耳の遠いらしい管理人に何度も「えっ?」「えっ?」と訊き返されながら、ハルヒは朝倉一家の突然の引っ越しは管理人たる自分にも寝耳に水だったこと(引っ越し屋が来た様子もないのに部屋が空っぽになっておって度肝を抜かれたわ)、朝倉がいたのは三年ほど前からだったこと(めんこいお嬢さんがわしんとこに和菓子の折り詰めをもってきたから覚えておる)、ローンではなく一括ニコニコ現金払いだったこと(えれえ金持ちだと思ったもんだて)、などを首尾良く聞き出していた。探偵にでもなればいい。
爺さんはうら若き乙女と会話することがよほど楽しいらしく、
「そう言えばお嬢さんのほうはたびたび目にしたが、両親さんとはついぞ挨拶した覚えもないのー」
「涼子さんと言うのかね、あの娘さんは。気だての好い、いい子だったのー」
「せめて一言別れを言いたかったのに、残念なことよのー。ところであんたもなかなか可愛い顔しとるのー」
とか、もはやジジイの繰り言の様相を呈してきて、ハルヒもこれ以上の情報提供は得られないと判断したのか、
「ご丁寧にありがとうございました」
模範的なお辞儀をして、俺をうながした。うながされるまでもなく、俺はハルヒに遅れてマンションを後にする。
「少年、その娘さんは今にきっと美人になる。取り逃がすんじゃないぞー」
追ってくるジジイの声が余計だ。ハルヒの耳にも届いたはずで、それに何かのリアクションがあるかとビクビクしていたがハルヒは何をコメントすることもなくずんずんと歩き続け、見習って俺もノーコメントを選択し、玄関から数歩歩いたところで、コンビニ袋と学生鞄を提げた長門に出くわした。いつもは下校時間まで部室に残っているのが通例なのにこの時間にここにいるということは、あれから間もなくこいつも学校を出たのだろう。
「あら、ひょっとしてあんたもこのマンションなの? 奇遇ねえ」
白皙の表情で長門はうなずいた。どう考えても奇遇じゃないだろ。
「だったら朝倉のこと、何か聞いてない?」
否定の仕草。
「そう。もし朝倉のことで解ったら教えてよね。いい?」
肯定の動作。
俺は缶詰や惣菜のパックが入っているコンビニ袋を見ながら、こいつも飯食うんだなとか考えてた。
「眼鏡どうしたの?」
その問いには直接答えず、長門はただ俺を見た。見られても困る。ハルヒもまともな回答が返ってくるとはハナから思っていなかったようだ。肩をすくめ後も見ずに歩き出す。俺は片手をヒラヒラと振って長門に別れの意を表明し、すれ違いざま、長門は俺にだけ聞こえる小声で言った。
「気をつけて」
今度は何に気をつければいいんだか、それを訊こうと振り返る前に、すでに長門はマンションに吸い込まれていた。
ローカル線の線路沿いを歩いていくハルヒの二、三歩あとに俺は位置し、目的地不明のウォーキングに付き従っている。このままでは俺の自宅から離れるばかりなので、ハルヒにこれからどこに行くつもりなのかを尋ねてみた。
「別に」
答えが返ってきた。俺はハルヒの後頭部を眺めたまま、
「俺、もう帰っていいか?」
いきなり立ち止まるもんだから、もう少しでつんのめるところだった。ハルヒは長門みたいな無感動な白い顔を俺に向け、
「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
何を言い出すんだ。
「あたしはある。忘れもしない」
線路沿いの県道、そのまた歩道の上で、ハルヒは語り始めた。
「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないのかと思った。でね、父親に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。それを見て、わたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって。家に帰って電卓で計算してみたの。日本の人口が一億数千ってのは社会の時間に習っていたから、それを五万で割ってみると、たった二千分の一。あたしはまた愕然とした。あたしなんてあの球場にいた人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見た普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやっている普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。考えていたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」
まるで弁論大会の出場者みたいにハルヒは一気にまくしたて、喋り終えると喋ったことを後悔するような表情になって天を仰いだ。
電車が線路を走り抜け、その轟音のおかげで俺は、ここはツッコムべきなのか何か哲学的な引用でもしてごまかしたほうがいいのか、考える時間を得た。ドップラー効果を残して遠くへ去っていく電車を意味もなく見送って、
「そうか」
こんなことくらいしか言えない自分がちょっと憂鬱だ。ハルヒは電車が巻き起こした突風で乱れた髪を撫でつけ、
「帰る」
と言って、もと来た方向へ歩き出した。俺もどっちかと言えばそっちから帰ったほうが早く帰れるんだが。しかしハルヒの背中は無言で「ついてくんな!」と言っているような気がして、俺はただひたすらに、ハルヒの姿が見えなくなるまで----その場に立ちつくしていた。
何やってるんだろうね。
自宅に戻ると、門の前で古泉一樹が俺を待っていた。
「こんにちは」
十年前からの友人みたいな笑顔がそらぞらしい。制服に通学鞄という完璧な下校途中スタイルで、馴れ馴れしく手を振りながら、
「いつぞやの約束を果たそうかと思いまして。帰りを待たせてもらいました。意外に早かったですね」
「俺がどこに行ってたか知ってるみたいな話し方だな」
スマイルゼロ円みたいな笑みをたたえる古泉は、
「少しばかりお時間を借りていいでしょうか。案内したいところがあるんですよ」
「涼宮がらみで?」
「涼宮さんがらみで」
俺は自宅の扉を開けると玄関に鞄を置き、ちょうど奥から出てきた妹に、ちょっと遅くなるかもしれないことを告げ、また古泉のところへ取って返し、その数分後には車上の人となっていた。
ありえないくらいのタイミングの良さで通りかかったタクシーを古泉が止め、俺と奴を乗せた車は国道を東へと向かっている。乗り際に古泉が口にした地名は、県外にある大都市のものであり、電車で行ったほうが遥かに安上がりに違いないのだが、どうせ払いはこいつ持ちだ。
「ところで、いつぞやの約束って何だっけ」
「超能力者ならその証拠を見せてみろとおっしゃったでしょう? ちょうどいい機会が到来したもんですから、お付き合い願おうと思いまして」
「わざわざ遠出する必要があるのか?」
「ええ。僕が超能力者的な力を発揮するには、とある場所、とある条件下でないと。今日これから向かう場所が、いい具合に条件を満たしているというわけです」
「またハルヒが神様だとか思ってんのか」
後部座席に並んで座っている古泉は、俺に横目をくれて、
「人間原理という言葉をご存知ですか?」
「ご存知でないな」
ふっと息継ぎみたいな笑い声を上げて、古泉は言った。
「煎じ詰めて言えば『宇宙があるべき姿をしているのは、人間が観測することによって初めてそうであることを知ったからだ』という理論です」
ちっとも解らん。
「我観測す。ゆれに宇宙あり。とでも言い換えましょうか。要するに、この世に人間なる知的生命体がいて物理法則や定数を発見し、宇宙はこのようにして成り立っていると観測出来て初めて宇宙そのものの存在が知られるわけです。ならば宇宙を観測する人類がもし地球でここまで進化することがなかったら、観測するものがいない以上、宇宙はその存在を誰にも知られることがない。つまりあってもなくても同じことになってしまう。人類がいるからこそ宇宙は存在を認められている。という人間本位的な理屈のことです」
「そんな無茶な話があるか。人類がいようがいまいが、宇宙は宇宙だろ」
「その通りです。だから人間原理は科学的とは言えません。思索的な理論にすぎない。しかし面白い事実がここから浮上します」
タクシーが信号で止まる。運転手は前を見たまま、俺たちを一顧だにしない。
「なぜ宇宙は、こうも人類の存在に適した形で創造されたのか。重力定数がわずかでも小さいか大きいかしていたなら、宇宙がこのような世界になることはなかったでしょう。あるいはプランク定数が、あるいは粒子の質量比が、まさに人間にとってうってつけとしか言いようがない値をとっているゆえに世界はあり、人類もある。不思議なことだと思いませんか?」
俺は背中がむず痒くなるのを感じた。何だか科学かぶれした新興宗教のパンフレットにありそうな謳い文句だ。
「ご安心を。僕は全知全能たる絶対神が人間の創造物である、などと信仰しているわけではありません。僕の仲間たちもね。ただし疑ってはいます」
何をだ。
「僕たちは、崖っぷちで爪先立ちしている道化師のごとき存在なのではないかとね」
俺がよほど変な顔をしていたのだろう。古泉は喘息にかかった鶏のオスみたいな笑い声を響かせ、
「冗談です」
「お前の言ってることは何一つとして理解出来ん」
俺はハッキリ言ってやった。笑えないコントに付き合っているヒマはない。ここで俺を下ろすか、さったとUターンしろ。出来れば後者がいい。
「人間原理を引き合いに出したのは、ものの例えですよ。涼宮さんの話がまだです」
だから、どうしてお前も長門も朝比奈さんもハルヒがそんなに好きなんだ。
「魅力的な人だとは思いますが。それは置いときましょう。覚えていますか、僕が、世界は涼宮さんによって作られたのかもしれないと言ったこと」
いまいましいことだが記憶には残っているようだな。
「彼女には願望を実現する能力がある」
そんなことを大真面目に断言するな。
「断言せざるを得ません。事態はほとんど涼宮さんの思い通りに推移していますから」
そんなはずがあるか。
「涼宮さんは宇宙人はいるに違いない、そうであって欲しいと願った。だから長門有希がここにいる。同様に未来人もいて欲しいと思った。だから朝比奈みくるがここにいる。そして僕も、彼女に願われたからというただそれだけの理由でここにいるのですよ」
「だーかーら、なんで解るんだよ!」
「三年前のことです」
三年前はもういい。聞き飽きた。
「ある日、突然僕は自分に、ある能力が備わったことに気付いた。その能力をどう使うべきかも何故か知っていた。僕と同じ力を持つ人間が僕と同様に力に目覚めたこともね。ついでにそれが涼宮ハルヒによってもたらされたことも。これは説明出来ません。解ってしまうんだから仕方がないとしか」
「一億歩譲ったとして、ハルヒにそんなことが出来るとは思えん」
「そうでしょうね。我々だって信じられなかった。一人の少女によって世界が変化、いや、ひょっとしたら創造されたのかもしれない、なんてことをね。しかもその少女はこの世界を自分にとって面白くないものだと思い込んでいる。これはちょっとした恐怖ですよ」
「なぜだ」
「言ったでしょう。世界を自由に創造出来るのなら、今までの世界をなかったことにして、望む世界を一から作り直せばいい。そうなると文字通りの世界の終わりが訪れます。もっとも僕たちがそれを知るすべもないでしょうが。むしろ我々が唯一無二だと思っているこの世界も、実は何度も作り直された結果なのかもしれません」
信じられるか、と言う代わりに俺は別の言葉を作っていた。
「だったらハルヒに自分の正体を明かしたらいい。超能力者が実在すると知ったら、喜ぶぞ、あいつ。世界をどうにかしようとは思わなくなるかもしれん」
「それはそれで困るんですよ。涼宮さんが超能力なんて日常に存在するのが当たり前だと思ったなら、世界は本当にそのようになります。物理法則がすべてねじ曲がってしまいます。質量保存の法則も、熱力学の第二法則も。宇宙全体がメチャクチャになりますよ」
「どうにも解らないことがある」
俺は言った。
「ハルヒが宇宙人や未来人や超能力者を望んだから、お前や長門や朝比奈さんがいるんだって言ったな」
「そうです」
「なら、なぜハルヒ自身はまだそれに気付いていないんだ。お前たちや、俺までが知っているのに。おかしいだろう」
「矛盾だと思いますか。ところがそうではないのですよ。矛盾しているのは涼宮さんの心のほうです」
解りやすく言え。
「つまるところ、宇宙人や未来人や超能力者が存在して欲しいという希望と、そんなものがいるはずないという常識論が、彼女の中でせめぎ合っているんですよ。彼女の言動こそエキセントリックですが、その実、まともな思考形態を持つ一般的な人種なんです。中学時代は砂嵐のようだった精神も、ここ数ヶ月は割に落ち着いて、僕としてはこのまま落ち着いていて欲しかったんですけどね、ここに来てまた、トルネードを発生させている」
「どういうわけだ」
「あなたのせいですよ」
古泉は口だけで笑っていた。
「あなたが涼宮さんに妙なことを思いつかせなければ、我々は今もまだ彼女を遠目から観察するだけですんでいたでしょう」
「俺がどうしたって?」
「怪しげなクラブを作るように吹き込んだのはあなたです。あなたとの会話によって彼女は奇妙な人間ばかりを集めたクラブを作る気になったのだから、責任のありかはあなたに帰結します。その結果、涼宮ハルヒに関心を抱く三つの勢力の末端が一堂に会することになってしまった」
「......濡れ衣だ」
我ながら力のこもらない反論。古泉は薄く笑いながら、
「まあ、それだけが理由ではないのですが」
それだけ言って口を閉ざした。俺が続きを言えと言い出す前に、運転手が言った。
「着きました」
車が止まり、ドアが開かれる。雑踏の中に俺と古泉は降り立った。料金を受け取ることもなくタクシーは走り去ったが、俺は全然驚かなかった。
周辺地域に住む人間が、街に出る、と言えばたいていこの辺りのことを差す。私鉄やJRのターミナルがごちゃごちゃと連なり、デパートや複合建築物が立ち並ぶ日本有数の地方都市。夕日がせわしなく道行く人々を明るく彩色するスクランブル交差点。どこから湧いたのかと思うほどの人間が青信号と同時に動き出した。その長い横断歩道の際で車を降りた俺たち二人は、たちまちのうちに雑踏に紛れた。
「ここまでお連れして言うのも何ですが」
ゆっくりと横断歩道を渡りつつ、古泉は前を見たまま、
「今ならまだ引き返せますよ」
「いまさらだな」
すぐ横を歩く古泉の手が俺の手を握った。何のマネだ、気持ち悪い。
「すみませんが、しばし目を閉じていただけませんか。すぐすみます。ほんの数秒で」
肩がぶつかりそうになった会社員風のスーツ姿を身体をよじって避ける。青信号が点滅を始める。
いいだろう。俺は素直に目をつむった。大量の靴音、車のエンジン音、一時も途絶えることのない人声、喧噪。
古泉に手を引かれて、一歩、二歩、三歩。ストップ。
「もうけっこうです」
俺は目を開いた。
世界が灰色に染まっていた。
暗い。思わず空を見上げる。あれほど目映い橙色を放っていた太陽はどこにもなく、空は暗灰色の雲に閉ざされている。雲なのだろうか? どこにも切れ目のない平面的な空間がどこまでも広がり、周囲を陰で覆っている。太陽がない代わりに灰色の空は薄ボンヤリとした燐光を放って世界を暗黒から救っている。
誰もいない。
交差点の真ん中に立ちつくす俺と古泉以外、横断歩道を埋め尽くすまでだった人の群れは、存在の名残もなく消え失せていた。薄闇の中で、信号機だけがむなしく点滅し、今、赤になった。車道側の信号が青に変わる。しかし走り出す車も一台もなかった。地球の自転すら止まったのではないかと思うほどの静寂。
「次元断層の隙間、我々の世界とは隔絶された、閉鎖空間です」
古泉の声が静まりかえった大気の中でやけに響いた。
「ちょうどこの横断歩道の真ん中が、この閉鎖空間の <壁> でしてね。ほら、このように」
伸ばした古泉の手が抵抗を受けたように止まった。俺も真似してみる。冷たい寒天のような手触り。弾力のある見えない壁はわずかに俺の手を受け入れたが、十センチも進まないうちにビクともしなくなった。
「半径はおよそ五キロメートル。通常、物理的な手段では出入り出来ません。僕の持つ力の一つが、この空間に侵入することですよ」
タケノコのように地面から生えているビルの数々には明かり一つ灯っていない。商店街に並ぶ店にも。人工的な光を放っているのは信号機と、弱々しく輝く街灯だけだ。
「ここはどこだ」
むしろ、何だ、と言うべきだろうか。
歩きながら説明しましょう、と古泉はどうということもなさそうに、
「詳細は不明ですが、我々の住む世界とは少しだけズレたところにある違う世界............とでも言いましょうか。先ほどの場所から次元断層が発生し、我々はその隙間に入り込んだ状態になっています。今この時でも、外部は何ら変わらない日常が広がっていますよ。常人がここに迷い込むことは......まあ滅多にありません」
道路を渡り切り、古泉は目的地が決まっているのか、確かな足取りで歩を進める。
「地上に発生したドーム状の空間を想像して下さい。お椀を伏せたようなと言いますか。ここはその内部ですよ」
雑居ビルの中に入る。人の気配どころかホコリ一つ落ちていない。
「閉鎖空間はまったくのランダムに発生します。一日おきに現れることもあれば、何ヶ月も音沙汰なしのこともある。ただ一つ明らかなのは、」
階段を登る。ひどく暗い。前を歩く古泉の姿がわずかでも見えていなければ足を取られるところだ。
「涼宮さんの精神が不安定になると、この空間が生まれるってことです」
四階建ての雑居ビルの屋上に出る。
「閉鎖空間の現出を僕は察知することが出来ます。僕の仲間も。なぜそれを知ってしまうのかは僕らにも謎です。なぜだか出る場所と時間が解ってしまう。同時にここへの入り方もね。言葉では説明出来ません、この感覚は」
屋上の手すりにもたれて空を見上げる。そよとも風が吹いていない。
「こんなものを見せるために、わざわざ連れてきたのか? 誰もいないだけじゃないか」
「いえ、核心はこれからですよ。もう間もなく始まります」
もったいぶるな。しかし古泉は俺の仏頂面に気付かないふりをして、
「僕の能力は閉鎖空間を探知して、ここに入るだけではありません。言うなれば、僕には涼宮さんの理性を反映した能力が与えられているのです。この世界が涼宮さんの精神に生まれたニキビだとしたら、僕はニキビ治療薬なんですよ」
「お前の比喩は解りにくい」
「よく言われます。しかしあなたもたいしたものだ。この状況を見て、ほとんど驚いていませんね」
俺は消えた朝倉とゴージャスな朝比奈さんを思い出した。すでに色々あったからな。
不意に古泉は顔を上げた。相対した俺の頭の向こう側に、遠くに焦点を合わせた目を向ける。
「始まったようです。後ろを見て下さい」
見た。
遠くの高層ビルの隙間から、青く光る巨人の姿が見えた。
三十階建ての商業ビルよりも頭一つ高い。くすんだコバルトブルーの痩身は発光物質ででも出来ているのか、内部から光を放っているようだ。輪郭もはっきりしない。目鼻立ちといえるものもない。目と口があるらしき部分がそこだけ暗くなっている他はただののっぺらぼうだ。
何だ、アレは。
挨拶でもするように、巨人は片手をゆるゆると上げ、鉈のように振り下ろした。
かたわらのビルの屋上から半ばまで叩き割り、腕を振る。コンクリートと鉄筋の瓦礫がスローモーションで落下、轟音とともにアスファルトに降り注ぐ。
「涼宮さんのイライラが具現化したものだと思われます。心のわだかまりが限界に達するとあの巨人が出てくるようです。ああやって周りをぶち壊すことでストレスを発散させているんでしょう。かと言って、現実世界で暴れさせるわけにもいかない。大惨事になりますかね。だからこうして閉鎖空間を生み出し、その内部のみで破壊行動をする。なかなか理性的じゃないですか」
青い光の巨人が腕を振るたびにビルたちは半分からへし折られて崩壊し、崩壊したビルの残骸を踏みつぶしながら巨人は足を踏み出した。建物がひしゃげる鈍い音は聞こえても、巨人の足音は不思議と響いて来ない。
「あれくらいの巨大な人型になると、物理的には自重で立つことも出来ないはずなんですがね。あの巨人はまるで重力がないかのように振る舞うんです。ビルを破壊出来るということは質量を持っているはずなんですが、いかなる理屈もあれには通用しませんよ。たとえ軍隊を動員したとしても、あれを止めることは出来ないでしょう」
「じゃ、あれは暴れっぱなしなのか」
「いいえ。僕がいるのはそのためでもあるのですから。見てください」
古泉は指を巨人に向けた。俺は目を凝らす。さっきまではなかった、赤い光点がいくつか巨人の周りを旋廻していた。高層ビルと伍する雲つく青い巨人に比べると、ゴマ粒みたいな矮小な球状の赤い光。五つまでは数えられたが、動きが速すぎて目で追いきれない。衛星のように巨人を周回する赤い点は、まるで巨人の行く手を遮るような動きを見せていた。
「僕の同志ですよ。僕と同じように涼宮さんによって力を与えられた、巨人を狩る者です」
赤い光の粒は、淡々と街並みを破壊する青い巨人が振り回す両腕を巧みに回避しながら、急激に軌道を変えて巨人の身体に突撃を仕掛けていた。巨人の身体はまるで気体で出来ているようだった。やすやすと貫通する。
だが巨人は自分の顔の前を飛び回る赤い球体など目に入らない様子で、攻撃を無視、義務的な動作でまた一つのデパートビルに手刀を振り下ろした。
複数の赤光が一斉に突撃してもその動きは変わらない。巨人は体中を速すぎてレーザーのようにも見える赤い光に貫かれていたが、遠目からではどんなダメージを受けているのかはまったく解らなかった。巨人の身体には穴すら開いていないようにも見える。
「さて、僕も参加しなければ」
古泉の身体から赤い光が滲み出していた。オーラが可視光線なんだとしたら、まさにそんな感じだ。発光する古泉の身体はたちまちのうちに赤い光の球体に飲み込まれ、俺の目の前に立っているのは、もはや人間の姿ではなく、ただの大きな光の玉だった。
デタラメだな、もう。
ふわりと浮き上がった赤い光球は、俺に目配せでもするように二三度ばかり左右に揺れると、残像すら残らないスピードで飛び去った。一直線に、巨人へ向けて。
古泉のなれの果てを加えた赤い光群は一秒もじっとしていないため総数を数える気にもならないが、二桁ってことはないだろう。果敢に巨人への体当たりアタックをかましているものの突き抜けるばかりで何かの効果を上げているようには思えない、と俺が傍観していると、赤い玉の一つが巨人の青い腕、肘の辺りに取りついて、そのまま腕に沿って一周した。
ゆらあり、と巨人の片腕が肘から切断され、主を失った巨腕が地面に落下していく、と思いきや、青い光がモザイク状に煌きながら、腕は厚みを失って、日向に置いた雪の欠片のように消えた。肘を失った切断部から気体のような青い煙がゆっくりと滴っているのは、あれは巨人の血液だろうか。幻想的と言えなくもない光景である。
赤い玉たちは猪突猛進から切り刻み攻撃に宗旨変えをしたようで、犬にたかるノミみたいに一斉に巨人の身体にピタリと身を寄せると、青い光を切り刻み始める。巨大な顔に赤い線が斜め走り頭部がずり落ちる。肩が崩落し、たちまちのうちに上半身は奇怪なオブジェと化した。切断された部位はモザイクとなって広がり、そして消滅する。
青い光が立つ辺り一面が荒野になっているおかげで遮蔽物がなく俺は一部始終を観劇することが出来た。身体の半分以上を失ったと同時に巨人、崩壊。塵よりも小さく分解し、後には瓦礫の山が残されるばかりだった。
上空を旋廻していた赤い点々は、それを見届けると、四方に散った。大半はすぐに見えなくなったが一つが俺に向かって飛んできて、雑居ビルの屋上に軟着陸を決めると赤い光がパトランプからコタツ強、弱へと明るさを弱め、すっかり光の放出をやめたとき、そこに立っているのは、気取った手つきで髪をなでつけているいつもの微笑みを浮かべた古泉なのだった。
「お待たせしました」
息一つ乱れていない。
「最後に、もう一つ面白いものが観られますよ」
空を指さした。これ以上何があるんだと思いながら、俺はダークグレー一色に染まった天空を見上げ、それを見た。
最初に巨人を見かけた辺り、その上空に亀裂が入っていた。卵から孵化しようとしている雛鳥がつついたようなひび割れ。亀裂は蜘蛛の巣状に成長していった。
「あの青い怪物の消滅に伴い、閉鎖空間も消滅します。ちょっとしたスペクタクルですよ」
古泉の説明口調が終わるかどうかのうちに、亀裂は世界を覆い尽くしていた。まるで金属製の巨大なザルをすっぱりかぶせられた気分だ。網の目が細かくなっていき、ほぼ黒い湾曲としか思えなくなったその直後、
パリン。
音はしなかった。だが俺はガラスが砕けるような擬音を脳裏に感じた。天頂の一点から明るい光が一瞬にして円形に広がる。光が降ってくる、と思ったのは間違いで、ドーム球場の開閉式の屋根が数秒もしないで全開にされた、というのが近い。ただし屋根だけではなく建物すべてが。
つんざくような騒音が鼓膜を打って、俺は反射的に耳を押さえた。だがその音は無音の世界でしばらく過ごしたことによる単なる錯覚、日常の喧噪。
世界は元の姿を取り戻している。
崩れ去った高層ビルも灰色の空も空飛ぶ赤い光もどこにもない。道路は車と人の山でごった返し、ビルの合間には見慣れたオレンジ色の太陽が輝き、世界をあまねく照らすその光は恩恵を受ける物体すべてに長い影を生じさせていた。
風が吹いていた。
「解っていただけましたか?」
雑居ビルを後にした俺たちの前に嘘みたいに止まったタクシーに乗り込みながら古泉が訊いた。見覚えのある無口な運転手。
「いいや」と俺は答えた。本心から。
そう言うと思いました。と古泉は笑いを含んだ声で、「あの青い怪物----我々は <神人> と呼んでいますが----は、すでにお話したとおり涼宮さんの精神活動と連動しています。そして我々もまたそうなんです。閉鎖空間が生まれ、 <神人> が生まれるときに限り、僕は異能の力を発揮出来る。それも閉鎖空間の中でしか使えない力です。例えば今、僕には何の力もありません」
俺は黙って運転手の後頭部を眺めていた。
「なぜ我々だけにこんな力が備わったのかは不明ですが、多分誰でもよかったんでしょう。宝くじに当たったみたいなものです。到底当たりそうにない低確率でも、誰かには命中する。たまたま僕に矢が刺さっただけなんですよ」
因果な話です、と言って古泉は微苦笑を浮かべ、俺は黙り続けた。何と言っていいものやらさっぱりだ。
「 <神人> の活動を放置しておくわけには行きません。なぜなら、 <神人> が破壊すればするほど、閉鎖空間も拡大していくからです。あなたがさっき見たあの空間は、あれでもまだ小規模なものなのです。放っておけばどんどん広がっていって、そのうち日本全国を、それどころか全世界を覆い尽くすでしょう。そうなれば最後、あちらの灰色の空間が、我々のこの世界と入れ替わってしまうのですよ」
俺はようやく口を開いた。
「なぜそんなことが解る」
「ですから、解ってしまうのだからしょうがありません。『機関』に所属している人間はすべてそうです。ある日突然、涼宮さんと彼女が及ぼす世界への影響についての知識と、それから妙な能力が自分にあることを知ってしまったのです。閉鎖空間の放置がどのような結果をもたらすのかもね。知ってしまった以上はなんとかしなければならないと思うのが普通ですよ。僕たちがしなければ、確実に世界は崩壊しますから」
困ったものです、と呟いて、古泉も黙り込んだ。
それきり俺の自宅に到着するまで、俺たちは窓を流れる日常の風景を眺め続けた。
車が止まって俺が降りる際になって、
「涼宮さんの動向には注意しておいて下さい。ここしばらく安定していた彼女の精神が、活性化の兆しを見せています。今日のあれも、久しぶりのことなんですよ」
俺が注意しててもどうこうするもんでもないんじゃないのか?
「さあ、それはどうでしょうか。僕としてはあなたにすべてのゲタを預けてしまってもいいと思っているんですがね。我々の中でも色々と思惑が錯綜しておりまして」
半分ほど開いたドアから身を乗り出していた古泉は俺が言い返すよりも早く頭を引っ込めた。ドアが閉まる。都市伝説にありそうな幽霊タクシーのように走り去る車を見送るのもバカらしく、俺はさっさと自宅に戻った。