第二章
結果から言おう。そのまさかだった、と。
その後の休み時間、ハルヒはいつものように一人で教室から出て行くことはなかった。その代わり、俺の手を強引に引いて歩き出した。教室を出て廊下をずんずん進み階段を一段飛ばしで登り屋上へ出るドアの前に来て停止する。
屋上へのドアは常時施錠されていて、四階より上の階段はほとんど倉庫代わりになっている。多分美術部だろう。でかいカンバスやら壊れかけのイーゼルやら鼻のかけたマルス像やらがところ狭しと積み上げられていて、実際狭い。しかも薄暗い。
こんな所に連れ込んで俺をどうしようと言うんだ。
「協力しなさい」
ハルヒは言った。今、ハルヒがつかんでいるのは俺のネクタイだ。頭一つ分低い位置から鋭い眼光が俺に迫っている。カツアゲされているような気分だよ。
「何を協力するって?」
実は解っていたが、そう訊いてみた。
「あたしの新クラブ作りよ」
「なぜ俺がお前の思いつきに協力しなければならんのか、それをまず教えてくれ」
「あたしは部室と部員を確保するから、あんたは学校に提出する書類を揃えなさい」
聞いちゃいねえ。
俺はハルヒの手を振りほどくと、
「何のクラブを作るつもりなんだ?」
「どうでもいいじゃないの、そんなの。とりあえずまず作るのよ」
そんな活動内容不明なクラブを作ったとして学校側が認めるか大いに疑問だがな。
「いい? 今日の放課後までに調べておいて。あたしもそれまでに部室を探しておくから。いいわね」
よくない、などと言えばこの場で撲殺されそうな気配だった。俺が何と返答すべきかを考えているうちにハルヒは身を翻して軽妙な足取りでさっさかと階段を降りていき、ホコリっぽい階段の踊り場で途方に暮れる一人の男が残された。
「......俺はイエスともノーとも言っていないんだが......」
石膏像に問いかけるのもむなしく、俺は好奇心のかたまりになっているであろうクラスメイトどもに何と挨拶して教室に入ろうかと考えながら歩き出した。
「同好会」の新設に伴う規定。
人数五人以上。顧問の教師、名称、責任者、活動内容を決定し、生徒会クラブ運営委員会で承認されることが必要。活動内容は創造的かつ活力ある学校生活を送るに相応しいものに限られる。発足以降の活動・実績によって「研究会」への昇格が運営委員会において動議される。なお、同好会に留まる限り予算は配分されない。
わざわざ調べるまでもなかった。生徒手帳の後ろのほうにそう書いてある。
人数は適当に名前だけ借りるとかして揃えることも可能だろう。顧問はなかなか難しいが、何とかだまくらかしてなってもらうという手もある。名称も当り障りのないものにする。責任者は勿論ハルヒでいい。
だが、賭けてもいいがその活動内容が「創造的かつ活力ある学校生活を送るに相応しいもの」になることはないだろう。
そう言ったんだけどな。自分の都合の悪いことには聞く耳を持たないのが涼宮ハルヒの涼宮ハルヒたるゆえんである。
終業のチャイムが鳴るや否や俺のブレザーの袖を万力のようなパワーで握りしめたハルヒは拉致同然に俺を教室から引きずり出してたったかと早足で歩き出した。鞄を教室に置き去りにしないようにするのが精一杯だった。
「どこ行くんだよ」
俺の当然の疑問に、
「部室っ」
前方をのたりのたり歩いている生徒たちを蹴散らす勢いで歩みを進めつつハルヒは短く答え、後は沈黙を守り通した。せめて手は離せ。
渡り廊下を通り、一階まで降り、いったん外に出て別校舎に入り、また階段を登り、薄暗い廊下の半ばでハルヒは止まり俺も立ち止まった。
目の前にある一枚のドア。
文芸部。
そのように書かれたプレートが斜めに傾いで貼り付けられている。
「ここ」
ノックもせずにハルヒはドアを引き、遠慮も何もなく入っていった。無論俺も。
意外に広い。長テーブルとパイプ椅子、それにスチール製の本棚くらいしかないせいだろうか。天井や壁には年代を思わせるヒビ割れが二、三本走っており建物自体の老朽化を如実に物語っている。
そしてこの部屋のオマケのように、一人の少女がパイプ椅子に腰掛けて分厚いハードカバーを読んでいた。
「これからこの部室が我々の部室よ!」
両手を広げてハルヒが重々しく宣言した。その顔は神々しいまでの笑みに彩られていて、俺はそういう表情を教室でもずっと見せていればいいのにとか思ったが言わずにおいた。
「ちょっと待て。どこなんだよ、ここは」
「文化系部の部室棟よ。美術部や吹奏楽部なら美術室や音楽室があるでしょ。そういう特別教室を持たないクラブや同好会の部室が集まっているのがこの部室棟。通称旧館。この部室は文芸部」
「じゃあ、文芸部なんだろ」
「でも今年の春に三年生が卒業して部員ゼロ、新たに誰かが入部しないと休部が決定していた唯一のクラブなのよ。で、このコが一年生の新入部員」
「てことは休部になってないじゃないか」
「似たようなもんよ。一人しかいないんだから」
呆れた野郎だ。こいつは部室を乗っ取る気だぞ。俺は折りたたみテーブルに本を開いて読書にふける文芸部一年生らしきその女の子に視線を振った。
眼鏡をかけた髪の短い少女である。
これだけハルヒが大騒ぎしているのに顔を上げようともしない。たまに動くのはページを繰る指先だけで残りの部分は微動だにせず、俺たちの存在を完璧に無視してのけている。これはこれで変な女だった。
俺は声をひそめてハルヒに囁いた。
「あの娘はどうするんだよ」
「別にいいって言ってたわよ」
「本当かそりゃ?」
「昼休みに会ったときに。部室貸してっていったら、どうぞって。本さえ読めればいいらしいわ。変わっていると言えば変わっているわね」
お前が言うな。
俺はあらためてその変わり者の文芸部員を観察した。
白い肌に感情の欠落した顔、機械のように動く指。ボブカットをさらに短くしたような髪がそれなりに整った顔を覆っている。出来れば眼鏡を外したところも見てみたい感じだ。どこか人形めいた雰囲気が存在感を希薄なものにしていた。身も蓋もない言い方をすれば、早い話がいわゆる神秘的な無表情系ってやつ。
しげしげと眺める俺の視線をどう思ったのか、その少女は予備動作なしで面を上げて眼鏡のツルを指で押さえた。
レンズの置くから闇色の瞳が俺を見つめる。その目にも、唇にも、まったく何の表情も浮かんでいない。無表情レベル、マックスだ。ハルヒのものとは違って、最初から何の感情も持たないようなデフォルトの無表情である。
「長門有希」
と彼女は言った。それが名前らしい。聞いた三秒後には忘れてしまいそうな平坦で耳に残らない声だった。
長門有希は瞬きを二回するあいだぶんくらい俺を注視すると、それきり興味を失ったようにまた読書に戻った。
「長門さんとやら」俺は言った。「こいつはこの部室を何だか解らん部の部室にしようとしてんだぞ、それでもいいのか?」
「いい」
長門有希はページから視線を離さずに答える。
「いや、しかし、多分ものすごく迷惑をかけると思うぞ」
「別に」
「そのうち追い出されるかもしれんぞ?」
「どうぞ」
即答してくるのはいいが、まるで無感動な応答だな。心の底からどうでもいいと思っている様子である。
「ま、そういうことだから」
ハルヒが割り込んできた。こっちの声はやたらに弾んでいる。なんとなく、あまりいい予感がしなかった。
「これから放課後、この部室に集合ね。絶対来なさいよ。来なかったら死刑だから」
桜満開の笑みで言われて、俺は不承不承ながらうなずいた。
死刑はいやだったからな。
こうして部室を間借りすることになったのいいが、書類のほうはまだ手つかずである。だいたい名称も活動内容も決まっていないのだ。先にそれを決めてからにしろと言ったんだが、ハルヒにはまた別の考えがあるようだ。
「そんなもんはね、後からついてくるのよ!」
ハルヒは高らかにのたまった。
「まずは部員よね。最低後二人はいるわね」
ってことはなんだ、あの文芸部員も頭数に入れてしまっているのか? 長門有希を部室に付属する備品か何かと勘違いしているんじゃないか?
「安心して。すぐに集めるから。適材な人間の心当たりはあるの」
何をどう安心すればいいのだろう。疑問は深まるばかりである。
次の日、一緒に帰ろうぜと言う谷口と国木田に断りを入れて俺は、しょうがない、部室へと足を運んだ。
ハルヒは「先にいってて!」と叫ぶや陸上部が是非我が部にと勧誘したのも解るスタートダッシュで教室を飛び出した。足首にブースターでも付いているのかと思いたくなる勢いだ。おそらく新しい部員を確保しに行ったのだろう。とうとう宇宙人の知り合いでも出来たんだろうか。
通学鞄を肩に引っかけて俺は乗り気のしない足取りで文芸部に向かった。
部室にはすでに長門有希がいて、昨日とまったく同じ姿勢で読書をしておりデジャブを感じさせた。俺が入ってきてもピクリともしないのも昨日と同じ。よく知らないのだが、文芸部ってのは本を読むクラブなのか?
沈黙。
「......何を読んでんだ?」
二人して黙りこくっているのに耐えかねて俺はそう訊いてみた。長門有希は返事の代わりにハードカバーをひょいと持ち上げて背表紙を俺に見せる。睡眠薬みたいな名前のカタカナがゴシック体で躍っていた。SFか何かの小説らしい。
「面白い?」
長門有希は無気力な仕草で眼鏡のブリッジに指をやって、無気力な声を発した。
「ユニーク」
どうも訊かれたからとりあえず答えているみたいな感じである。
「どういうところが?」
「ぜんぶ」
「本が好きなんだな」
「わりと」
「そうか......」
「......」
沈黙。
帰っていいかな、俺。
テーブルに鞄を置いて余っていたパイプ椅子に腰を下ろそうとしたとき、蹴飛ばされたようにドアが開いた。
「やあごめんごめん! 遅れちゃった! 捕まえるのに手間取っちゃって!」
片手を頭の上でかざしてハルヒが登場した。後ろに回されたもう一方の手が別の人間の腕をつかんでいて、どう見ても無理矢理連れてこられたと思しきその人物共々、ハルヒはズカズカ部室に入ってなぜかドアに錠を施した。ガチャリ、というその音に、不安げに震えた小柄な身体の持ち主は、またしても少女だった。
しかもまたすんげー美少女だった。
これのどこが「適材な人間」なんだろうか。
「なんなんですかー?」
その美少女も言った。気の毒なことに半泣き状態だ。
「ここどこですか、なんでわたし連れてこられたんですか、何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を、」
「黙りなさい」
ハルヒの押し殺した声に少女はビクッとして固まった。
「紹介するわ。朝比奈みくるちゃんよ」
それだけ言ったきり、ハルヒは黙り込んだ。もう紹介終わりかよ。
名状しがたき気詰まりな沈黙が部屋を支配した。ハルヒはすでに自分の役割を果たしたみたいな顔で立ってるし、長門有希は何一つ反応することなく読書を続けてるし、朝比奈みくるとかいうらしい謎の美少女は今にも泣きそうな顔でおどおどしてるし、誰かなんか言えよと思いながら俺はやむを得ず口を開いた。
「どこから拉致して来たんだ?」
「拉致じゃなくて任意同行よ」
似たようなもんだ。
「二年の教室でぼんやりしているところを捕まえたの。あたし、休み時間には校舎をすみずみまで歩くようにしてるから、何回か見かけて覚えていたわけ」
休み時間に絶対教室にいないと思ったらそんなことをしていたのか。いや、そんなことより、
「じゃ、この人は上級生じゃないか!」
「それがどうかしたの?」
不思議そうな顔をしやがる。本当に何とも思っていないらしい。
「まあいい......。それはそれとして、ええと、朝比奈みくるさんか。なんでまたこの人なんだ?」
「まあ見てごらんなさいよ」
ハルヒは指を朝比奈みくるさんの鼻先に突きつけ彼女の小さい肩をすくませて、
「めちゃくちゃ可愛いでしょ」
アブナイ誘拐犯のようなことを言い出した。と思ったら、
「わたしね、萌えってけっこう重要なことだと思うのよ」
「......すまん、何だって?」
「萌えよ萌え、いわゆる一つの萌え要素。基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」
思わず俺は朝比奈みくるさんを見た。小柄である。ついでに童顔である。なるほど、下手をすれば小学生と間違ってしまいそうでもあった。微妙にウェーブした栗色の髪が柔らかく襟元を隠し、子犬のようにこちらを見上げる潤んだ瞳が守ってください光線を発しつつ半開きの唇から覗く白磁の歯が小ぶりの顔に絶妙なハーモニーを醸し出し、光る玉の付いたステッキでも持たせたらたちどころに魔女っ娘にでも変身しそうな、って俺は何を言っているんだろうね?
「それだけじゃないのよ!」
ハルヒは自慢げに微笑みながら朝比奈みくるさんなる上級生の背後に回り、後ろからいきなり抱きついた。
「わひゃああ!」
叫ぶ朝比奈さん。お構いなしにハルヒはセーラー服の上から獲物の胸をわしづかみ。
「どひぇええ!」
「ちっこいくせに、ほら、あたしより胸でかいのよ。ロリ顔で巨乳、これも萌えの重要要素の一つなのよ!」
知らん。
「あー、本当におっきいなー」
終いにはハルヒはセーラー服の下から手を突っ込んでじかに揉み始めた。おーい。
「なんか腹立ってきたわ。こんな可愛らしい顔して、あたしより大きいなんて!」
「たたたす助けてえ!」
顔を真っ赤にして手足をバタつかせる朝比奈さんだが、いかんせん体格の差はいかんともしがたく、調子に乗ったハルヒが彼女のスカートを捲り上げかけたあたりで背中にへばりついている痴漢女を引きはがした。
「アホかお前は」
「でも、めちゃデカイのよ。マジよ。あんたも触ってみる?」
朝比奈さんは小さく、ひいっ、と悲鳴を漏らした。
「遠慮しとく」
そう言うしかあるまい。
驚くべきことに、この間、長門有希は一度も顔を上げることなく読書にふけり続けていた。こいつもどうかしている。
それからふと気付いて、
「すると何か、お前はこの......朝比奈さんが可愛くて小柄で胸が大きかったからという理由なだけでここに連れてきたのか?」
「そうよ」
真性のアホだ、こいつ。
「こういうマスコット的なキャラも必要だと思って」
思うな、そんなこと。
朝比奈さんは乱れた制服をパタパタ叩いて直し、上目遣いに俺をじっと見た。そんな目で見られても困る。
「みくるちゃん、あなた他に何かクラブ活動してる?」
「あの......書道部に......」
「じゃあ、そこ辞めて。我が部の活動の邪魔だから」
どこまでも自分本位なハルヒだった。
朝比奈さんは、飲む毒の種類は青酸カリがいいかストリキニーネがいいかと訊かれた殺人事件の被害者のような顔つきでうつむき、救いを求めるようにもう一度俺を見上げ、次に長門有希の存在に初めて気付いて驚愕に目を見開き、しばらく視線を彷徨わせてからトンボのため息ような声で「そっかー......」と呟いて、
「解りました」と言った。
何が解ったんだろう。
「書道部は辞めてこっちに入部します......」
可哀想なくらいに悲愴な声である。
「でも文芸部って何するところなのかよく知らなくって、」
「我が部は文芸部じゃないわよ」
当たり前のように言うハルヒ。
目を丸くする朝比奈さんに、俺はハルヒに代わって言ってあげた
「ここの部室は一時的に借りてるだけなんです。あなたが入られようとしているのは、そこの涼宮がこれから作る活動内容未定で名称不明の同好会ですよ」
「......えっ......」
「ちなみにあっちで座って本読んでいるのが本当の文芸部員です」
「はあ......」
愛くるしい唇をポカンと開ける朝比奈さんはそれっきり言葉を失った。無理もあるまい。
「だいじょうぶ!」
無責任なまでの明るい笑顔でハルヒは朝比奈さんの小さい肩をどやしつけた。
「名前なら、たった今、考えたから」
「......言ってみろ」
期待値ゼロの俺の声が部屋に響く。出来ればあまり聞きたくない。そんな俺の思いなど頓着するはずもない涼宮ハルヒは声高らかに命名の雄叫びを上げたのだった。
お知らせしよう。何の紆余曲折もなく単なるハルヒの思いつきにより、新しく発足するクラブの名は今ここに決定した。
SOS団。
世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団。
略してSOS団である。
そこ、笑っていいぞ。
俺は笑う前に呆れたけどな。
なぜに団かと言うと、本来なら「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの同好会」とすべきなんだろうが、なにしろまだ同好会の体すらたっていない上に、何をする集団なのかも解らないのである。「それだったら、団でいいじゃない」という意味不明なハルヒのヒトコトによりめでたくそのように決まった。
朝比奈さんはあきらめきったように口を閉ざし、長門有希は部外者であり、俺は何を言う気にもなれなかったため、賛成一、棄権三で「SOS団」はめでたく発足の運びとなった。
好きにしろよ、もう。
毎日放課後ここに集合ね、とハルヒが全員に言い渡して、この日は解散となった。肩を落としてトボトボ廊下を歩いている朝比奈さんの後姿があまりに哀れを催したので、
「朝比奈さん」
「何ですか」
年上にまったく見えない朝比奈さんは純真そのものの無垢な顔を傾けた。
「別に入んなくてもいいですよ、あんな変な団に。あいつのことなら気にしないで下さい。俺が後から言っときますから」
「いえ」
立ち止まって、彼女はわずかに目を細めた。笑みの形の唇から綿毛のような声が、
「いいんです。入ります、わたし」
「でも多分、ろくなことになりませんよ」
「大丈夫です。あなたもいるんでしょう?」
そういや俺は何でいるんだろうな。
「おそらく、これがこの時間平面上の必然なんでしょうね......」
つぶらと表現するしかない彼女の目が遠くのほうを見た。
「へ?」
「それに長門さんがいるのも気になるし......」
「気になる?」
「え、や、何でもないです」
朝比奈さんは慌てた感じで首をぶんぶん振った。ふわふわの髪の毛がふわふわと揺れる。
そして朝比奈さんは照れ笑いをしながら深々と腰を折った。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「まあ、そう言われるんでしたら......」
「それからあたしのことでしたら、どうぞ、みくるちゃんとお呼び下さい」
にっこり微笑む。
うーん。眩暈を覚えるほど可愛い。
ある日のハルヒと俺の会話。
「あと必要なのは何だと思う?」
「さあな」
「やっぱり謎の転校生は押さえておきたいと思うわよね」
「謎の定義を教えて欲しいものだ」
「新年度が始まって二ヶ月も経ってないのに、そんな時期に転校してくる奴は充分謎の資格があると思うでしょ、あんたも」
「親父が急な転勤になったとかじゃねえのか」
「いいえ、不自然だわ。そんなの」
「お前にとって自然とはなんなのか、俺はそれが知りたい」
「来ないもんかしらね、謎の転校生」
「ようするに俺の意見なんかどうでもいいんだな、お前は」
どうもハルヒと俺が何かを企てている噂が流れているらしい。
「お前さあ、涼宮と何やってんの?」
こんなこと訊いてくるのは谷口に決まっている。
「まさか付き合いだしたんじゃねえよな?」
断じて違う。俺が一体全体何をやっているのか、それはこの俺自身が一番知りたい。
「ほどほどにしとけよ。中学じゃないんだ。グラウンドを使い物に出来なくなるようなことしたら悪けりゃ停学くらいにはなるぜ」
ハルヒが一人でやるんであれば俺はそこまで面倒見きれないがな。少なくとも、長門有希や朝比奈みくるさんに害が及ばないように注意はしておこう。こんな配慮の出来る自分がちょっと誇らしい。
暴走特急と化したハルヒを止める自身はあまりないけども。
「コンピュータも欲しいところね」
SOS団の設立を宣言して以来、長テーブルとパイプ椅子それに本棚くらいしかなかった文芸部の部室にはやたらと物が増え始めた。
どこから持ってきたのか、移動式のハンガーラックが部室の片隅に設置され、給湯ポットと急須、人数分の湯飲みも常備、今どきMDも付いていないCDラジカセに一層しかない冷蔵庫、カセットコンロ、土鍋、ヤカン、数々の食器は何だろうか、ここで暮らすつもりなんだろうか。
今、ハルヒはどっかの教室からガメてきた勉強机の上であぐらをかいて腕を組んでいた。その机にはあろうことか「団長」とマジックで書かれた三角錐まで立っている。
「この情報化時代にパソコンの一つもないなんて、許し難いことだわ」
誰を許さないつもりなのか。
一応メンバーは揃っていた。相も変わらず長門有希は定位置で土星のマイナー衛星が落ちたとかどうしたとかいうタイトルのハードカバーを読みふけり、来なくてもいいのに生真面目にもちゃんとやって来た朝比奈みくるさんは所在なげにパイプ椅子に腰掛けている。
ハルヒは机から飛び降りると、俺に向かって実にいやぁな感じのする笑いを投げかけた。
「と言うわけで、調達に行くわよ」
狩猟区へ鹿撃ちに行くハンターの目でハルヒは言った。
「調達って、パソコンを? どこでだよ。電気屋でも襲うつもりか」
「まさか。もっと手近なところよ」
ついてきなさい、と命令された俺と朝比奈みくるさんを引き連れてハルヒが向かった先は、二軒隣のコンピューター研究部だった。
なるほど。
「これ持ってて」
そう言って俺にインスタントカメラを渡す。
「いいこと? 作戦を言うから、その通りにしてよ。タイミングを逃さないように」
俺に身を屈めさせてハルヒは耳元でその「作戦」とやらをごにょごにょと呟いた。
「ああん? そんな無茶苦茶な」
「いいのよ」
お前はいいかもしれんが。俺は不思議そうにこっちを見ている朝比奈さんを一瞥し、アイコンタクトを図った。
とっとと帰ったほうがいいですよ。
目をパチパチさせている俺を朝比奈さんは怪訝そうな顔で見上げ、いかなる理屈か、頬を赤らめた。だめだ、通じていない。
そんなことをしているうちにハルヒは平気な顔でコンピュータ研究部のドアをノックもなしに開いた。
「こんちわー! パソコン一式、いただきに来ましたー!」
間取りは同じだが、こちらの部室はなかなか手狭だった。等間隔で並んだテーブルには何台ものディスプレイとタワー型の本体が載っていて、冷却ファンの回る低い音が室内の空気を振動させている。
席についてキーボードをカチャカチャと叩いていた四人の男子生徒、何事かと身を乗り出して入り口に立ちふさがるハルヒを凝視していた。
「部長は誰?」
笑いつつも横柄にハルヒが言い、一人が立ち上がって答えた。
「僕だけど、何の用?」
「用ならさっき言ったでしょ。一台でいいから、パソコンちょうだい」
コンピュータ研究部部長、名も知れぬ上級生は「何言ってんだ、こいつ」という表情で首を振った。
「ダメダメ。ここのパソコンはね、予算だけじゃ足りないから部員の私費を積み立ててようやく買ったものばかりなんだ。くれと言われてあげるほどウチは機材に恵まれていない」
「いいじゃないの一個くらい。こんなにあるんだし」
「あのねえ......ところでキミたち誰?」
「SOS団団長、涼宮ハルヒ。この二人はあたしの部下その一と二」
言うにことかいて部下はないだろう。
「SOS団の名において命じます。四の五の言わずに一台よこせ」
「キミたちが何者かは解らないけど、ダメなもんはダメ。自分たちで買えばいいだろ」
「そこまで言うのならこっちにも考えがあるわよ」
ハルヒの瞳が不敵な光を放つ。よくない兆候である。
ぼんやり立っていた朝比奈さんの背を押してハルヒは部長へと歩み寄り、いきなりそいつの手首を握りしめたかと思うと、電光石火の早業で部長の掌を朝比奈さんの胸に押しつけた。
「ふぎゃあ!」
「うわっ!」
パシャリ。
二種類の悲鳴をBGMに聞きながら俺はインスタントカメラのシャッターを切った。
逃げようとする朝比奈さんを押さえつけ、ハルヒは右手につかんだ部長氏の手でぐりぐりと小柄な彼女の胸をまさぐった。
「キョン、もう一枚撮って」
不本意ながら俺はシャッターボタンを押すのだった。すまない、朝比奈さん。と、名も知らぬ部長。朝比奈さんのスカートの中に突っ込まれる寸前に部長はやっと手を振り解いて跳びすさった。
「何をするんだぁ!」
紅潮したその顔面の前で、ハルヒは優雅に指を振るった。
「ちちち。あんたのセクハラ現場はばっちり撮らせてもらったわ。この写真を学校中にばらまかれたくなかったら、とっととパソコンをよこしなさい」
「そんなバカな!」
口角泡を飛ばして抗議する部長。その気持ちはよく解る。
「キミが無理矢理やらせたんじゃないか! 僕は無実だ!」
「いったい何人があんたの言葉に耳を貸すかしらねえ」
見ると朝比奈さんは床にへたり込んでいた。驚きを通り越してもはや虚脱の境地である。
なおも部長は抗弁する。
「ここにいる部員たちが証人になってくれる! それは僕の意思じゃない!」
唖《あ》然と大口を空けて石化していた三人のコンピュータ研部員たちが、我に返ったようにうなずいた。
「そうだぁ」
「部長は悪くないぞぉ」
しかしそんな気の抜けたシュプレヒコールが通用するハルヒではなかった。
「部員全員がグルになってこのコを輪姦したんだって言いふらしてやるっ!」
俺と朝比奈さんを含む全員の顔が青ざめた。いくらなんでもそれはないだろう。
「すすす涼宮さんっ......!」
足にすがりつく朝比奈さんの手を軽く蹴飛ばして、ハルヒは傲然と胸を反らした。
「どうなの、よこすの、よこさないの!」
赤から青へ目まぐるしく変色していた部長の顔はとうとう土気色になった。
ついに彼は陥落した。
「好きなのを持って行ってくれ......」
倒れ込むように椅子に背を投げ出した部長に他の部員たちが駆け寄った。
「部長!」
「しっかりしてください!」
「気を確かに!」
糸の切れたマリオネットの動きで部長は首をうなだれた。ハルヒの片棒をかついでいる俺ではあるのだが、同情を禁じ得ない。
「最新機種はどれ?」
どこまでも冷徹な女である。
「なんでそんなことを教えなくちゃいけないんだよ」
怒る部員の言葉もなんのその、ハルヒは無言で俺が持つカメラを指さした。
「くそ! それだよ!」
そいつが指さしたタワー型のメーカー名と型番を覗き込みつつハルヒはスカートのポケットから紙切れを取り出した。
「昨日、パソコンショップに寄って店員にここ最近出た機種を一覧にしてもらったのよねえ。これには載ってないみたいだけど?」
あまりの周到さに慄然とするね。
ハルヒはテーブルをぬって確認して回り、その中の一台を指名した。
「これちょうだい」
「待ってくれ! それは先月購入したばかりの......!」
「カメラカメラ」
「......持ってけ! 泥棒!」
まさしく泥棒だ。返す言葉もない。
ハルヒの要求はとどまるところを知らない。各ケーブルを引っこ抜かせたハルヒはディスプレイから何からいっさいがっさいを文芸部室に運ばせたあげく配線し直すように求め、さらにインターネットを使用できるようにLANケーブルを二つの部屋の間に引かせ、ついで学校のドメインからネットに接続できるようにすることを申しつけ、そのすべてをコンピュータ研部員にやらせた。盗人猛々しいとはこのことだろう。
「朝比奈さん」
すっかり手持ちぶさたになってしまった俺は両手で顔を覆ってうずくまる小さな身体に、
「とりあえず帰りましょう」
「ぅぅぅぅ......」
しくしく泣いている朝比奈さんを介添えして立たせた。自分の胸を握らせたらよかったのにな、ハルヒも。男の目の前でも平気で着替えをするあいつなら、んなこと屁とも思わないだろうに。泣きやまない朝比奈さんを宥めながら、パソコンを使って何をするつもりなのかと俺は考えた。
まあ、ほどなく明らかになったのだが。
SOS団のウェブサイト立ち上げ。
ハルヒはそれがしたかったようだ。で、誰が作るんだ? そのウェブサイトやらを。
「あんたが」
と、ハルヒは言った。
「どうせヒマでしょ。やりなさいよ。あたしは残りの部員を探さなきゃならないし」
パソコンは「団長」と銘打たれた三角錐付きの机に置かれていた。ハルヒはマウスを操ってネットサーフィンしながら、
「一両日中によろしくね。まずサイトが出来ないことには活動しようがないし」
我関せずとばかりに本を読む長門有希の横で朝比奈さんはテーブルに突っ伏して肩を震わせていた。ハルヒの言葉を聞いているのは、どうやら俺だけであり、ハルヒの託宣を聞いた以上は俺がそれをしないといけないようなのである。少なくともハルヒがそう思っているのは間違いない。
「そんなこと言われてもなあ」
言いながらも俺はけっこう乗り気だった。いやいや、ハルヒの命令口調になれてきたからじゃないぜ。サイト作りさ。やったことないけど、なんか面白そうじゃないか。
つまりそういうわけで、次の日から俺のサイト作成奮闘記が始まった。
とは言え、奮闘することもそうそうなかった。さすがコンピュータ研究部、あらかたのアプリケーションはすでにハードディスク内に収まっており、サイトの作成もテンプレートに従ってちょこっと切ったり貼ったりすればよかったからだ。
問題はそこに何を書くかである。
なにせ俺はSOS団が何を活動理念とした団体なのか未だに知らないのだ。知らない活動理念について書けるはずもなく、トップページに「SOS団のサイトにようこそ!」と書いた画像データを貼り付けた段階で俺の指はハタと止まった。いいから作れ早く作れとハルヒが呪文のように耳元で言い続けるのがやかましいので、こうして昼休みに弁当を食いながらマウスを握りしめている俺だった。
「長門、何か書きたいことってあるか?」
昼休みにまで部室に来て本を読んでいる長門有希に訊いてみた。
「何も」
顔も上げやしない。どうでもいいがこいつはちゃんと授業に出ているんだろうな。
長門有希の眼鏡顔から十七インチモニタに目を戻し、俺は再び考え込んだ。
もう一つの問題がある。正式に認可を受けていない同好会以下の怪しげな団のサイトを、学校のアドレスで作ってしまっていいものなのだろうか。
バレなきゃいいのよ、とはハルヒの弁。バレたらバレたで放っときゃいいのよ、こんなもんはね、やったもん勝ちなのよ!
この楽観的で、ある意味前向きな性格はちょっとだけうらやましい。
適当に拾ってきたフリーCGIのアクセスカウンタを取り付け、メールアドレスを記載して、----掲示板は時期尚早だろう----タイトルページのみでコンテンツ皆無という手抜き以前のホームページをアップロードした。
こんなんでいいだろ。
ネット上でちゃんと表示されていることを確認して俺はアプリを次々消してパソコンを終了させ、大きく伸びをしようとして、長門有希が背後にいることに気付いて飛び上がった。
気配ってもんがないのか。いつの間にかに俺の後ろを取っていた長門の能面のような白い顔。わざとやっても出来そうにない見事な無表情で長門は俺を視力検査表でも見るような目つきで見つめていた。
「これ」
分厚い本を差し出した。反射的に受け取る。ずしりと重い。表紙は何日か前に長門が読んでいた海外SFのものだった。
「貸すから」
長門は短く言い残すと俺に反駁するヒマを与えることなく部屋を出て行った。こんな厚い本を貸されても。一人取り残された俺の耳に、昼休みがもうすぐ終わることを告げる予鈴が届いた。どうも俺の周りには俺の意見を聞こうとする奴が少ないみたいだ。
ハードカバー本を手みやげに教室へ戻った俺の背中をシャープペンの先がつついた。
「どう、サイト出来た?」
ハルヒが難しい顔をして机にかじりついていた。破ったノートに何やらせっせとペン先を走らせている。俺は出来るだけクラスの注目を浴びないようなさりげなさを装って、
「出来たには出来たが、見に来た奴が怒りそうな何もないサイトだぞ」
「今はまだそれでもいいのよ。メールアドレスさえあればオッケー」
じゃあ携帯メールでも充分じゃないか。
「それはダメ。メールが殺到すると困る」
何をどうすれば登録したばかりのアドレスにメールが殺到するんだ?
「内緒」
そしてまたいやぁな感じの笑い。不気味だ。
「放課後になったら解るわよ。それまで極秘」
永遠に極秘にしておいて欲しい。
次の六時間目、ハルヒの姿は教室になかった。おとなしく帰っていてくれればいいのだが、まずあり得まい。悪事の前段階。
その放課後である。自分のやっていることに疑念を覚えつつ、つい部室へと足を向けてしまうのは何故だろうと形而上学的な考察を働かせながら俺は文芸部室へとやって来た。
「ちわー」
やっぱりいる長門有希と、両手を揃えて椅子に座っている朝比奈みくるさん。
人のことは言えないが、よっぽどヒマなのか、この二人は。
俺が入っていくと朝比奈さんはあからさまにホッとした表情になって会釈した。長門と二人で密室にいたら、そりゃ疲れるわな。
つーか、あなた、あんな目にあいながらよく今日も来ましたね。
「涼宮さんは?」
「さあ、六限にはすでにいませんでしたけどね。またどこかで機材を強奪してるんじゃないですか」
「あたし、また昨日みたいなことしないといけないんでしょうか......」
額に縦線を浮かべてうつむく朝比奈さんに、俺は精一杯の愛想の良さで
「大丈夫です。今度あいつが無理矢理朝比奈さんにあんなことしようとしたら、俺が全力で阻止します。自分の身体でやりゃいいんですよ。涼宮なら楽勝です」
「ありがとう」
ペコリと頭を下げるはにかんだ微笑みのあまりの可愛さに思わず朝比奈さんを抱きしめたくなった。しないけどね。
「お願いします」
「お願いされましょう」
太鼓判を押したのはいいが、俺のそんな約束が机上の空論、砂上の楼閣、太陽内部の水素原子のように崩壊するまでに五分とかからなかった。ダメ人間だ、俺。
「やっほー」
とか言いながらハルヒ登場。両手に提げているでかい紙袋が俺の目を引いた。
「ちょっと手間取っちゃって、ごめんごめん」
上機嫌時のハルヒは必ず他人の迷惑になりそうなことを考えていると見て間違いない。
ハルヒは紙袋を床に置くと後ろ手でドアの鍵をかけた。その音に反射的にビクンとなる朝比奈さん。
「今度は何をする気なんだ、涼宮。言っとくが押し込み強盗のマネだけは勘弁な。あと脅迫も」
「何言ってんの? そんなことするわけないじゃないの」
では机に載っているパソコンは何だ。
「平和裏に寄付してくれたものよ。そんなことより、ほら、これご覧なさい」
紙袋の一つからハルヒの取り出したものは、何やら手書き文字が印刷されたA4の藁半紙である。
「わがSOS団の名を知らしめようと思って作ったチラシ。印刷室に忍び込んで二百枚ほど刷ってきたわ」
ハルヒは俺たちにチラシを配った。授業をサボってそんなことをしていたのか。よく見つからなかったもんだ。別段見たくもなかったが俺はとりあえず受け取ったそれに目を通す。
『SOS団結団に伴う所信表明。
わがSOS団はこの世の不思議を広く募集しています。過去に不思議な経験をしたことのある人、今現在とても不思議な現象や謎に直面している人、遠からず不思議な体験をする予定の人、そういう人がいたら我々に相談するとよいです。たちどころに解決に導きます。確実です。ただし普通の不思議さではダメです。我々が驚くまでに不思議なコトじゃないといけません。注意してください。メールアドレスは......』
この団の存在意義がだんだん解ってきた。どうあってもハルヒはSFだかファンタジーだかホラーだかの物語世界に浸ってみたいらしい。
「では配りに行きましょう」
「どこでだよ」
「校門。今ならまだ下校していない生徒もいっぱいいるし」
はいはいそうですか、と紙袋を持とうとした俺を、しかしハルヒは制した。
「あんたは来なくていいわよ。来るのはみくるちゃん」
「はい?」
両手で藁半紙を握りしめ駄文を読んでいた朝比奈さんが首を傾げる。ハルヒはもう一つの紙袋をごそごそかき回し、そして勢いよくブツを取り出した。
「じゃあああん!」
猫型ロボットのように得意満面にハルヒが手にしているのは最初黒い布切れに見えた。が、オーノー! ハルヒが四次元ポケットよろしく次々出してきたアイテムが揃うにつれ、俺はなぜハルヒが朝比奈さんを指名したのかを悟り、そして朝比奈さんのために祈った。あなたの魂に安らぎあれ。
黒いワンウェイストレッチ、網タイツ、付け耳、蝶ネクタイに、白いカラー、カフス及びシッポ。
それはどこからどう見てもバニーガールの衣装なのだった。
「あのあのあの、それはいったい......」
怯える朝比奈さん。
「知ってるでしょ? バニーガール」
こともなげに言うハルヒ。
「まままさかあたしがそれ着るんじゃ......」
「もちろん、みくるちゃんのぶんもあるわよ」
「そ、そんなの着れませんっ!」
「だいじょうぶ。サイズは合っているはずだから」
「そうじゃなくて、あの、ひょっとしてそれ着て校門でビラ配りを、」
「決まってるじゃない」
「い、いやですっ!」
「うるさい」
いかん、目が据わっている。群れからはぐれたガゼルに襲いかかるライオンのメスのような俊敏な動きで朝比奈さんに飛びついたハルヒは、ジタバタする彼女のセーラー服を手際よく脱がせ始めた。
「いやあああぁぁぁ!」
「おとなしくしなさい!」
無茶なことを言いながらハルヒは朝比奈さんを取り押さえ、あっさりセーラー服を脱がせてしまうとスカートのホックに指をかけ、これは止めたほうがいいだろうと足を上げかけた俺は朝比奈さんと目があってしまい。
「見ないでぇ!」
泣き声で叫ばれて大急ぎで回れ右、ドアに走って----くそ、鍵がかかっていがる----無駄にガチャガチャとノブを回してからやっと鍵を開けて転がるように廊下へ脱出した。
その時横目で見たのだが、長門有希はまるで何事もなかったように本読みをしていた。
何か言うことはないのか。
閉めたドアにもたれかかった俺に、
「ああっ!」「だめえ!」「せめて......じ、自分で外すから......ひぇっ!」
などと、あられもない朝比奈さんの悲痛そのものの悲鳴と、
「うりゃっ!」「ほら脱いだ脱いだ!」「最初から素直にしときゃよかったのさ!」
というハルヒの勝ち誇った雄叫びが交互に聞こえてきた。むむむ。気にならんと言えば嘘になるなあ、さすがに。
それからしばらくして合図があり、
「入っていいわよ!」
少々ためらいながら部室に戻った俺の目が映し出したもの。それはどうしようもないまでに完璧な二人のバニーガールだった。ハルヒも朝比奈さんも呆れるほど似合っていた。
大きく開いた胸元と背中、ハイレグカットから伸びる網タイツに包まれた脚、ひょこひょこ揺れる頭のウサミミと白いカラーとカフスがポイントを高めている。何のポイントかは俺にだって解りはしない。
スレンダーなくせして出ているところが出ているハルヒとチビっこいのに出るべきところが出ている朝比奈さんの組み合わせは、はっきり言って目の毒だ。
うっうっうっと、しゃくりあげている朝比奈さんに「似合ってますよ」と声をかけるべきかどうか悩んでいるとハルヒが、
「どう?」
どうと言われても、俺はお前の頭を疑うくらいしか出来ねえよ。
「これで注目度もばっちりだわ! この格好なら大抵の人間はビラを受け取るわ。そうよね!」
「そりゃそんなコスプレした奴が学校で二人もうろついていたら嫌でも目立つからな......。長門はいいのか?」
「二着しか買えなかったのよ、フルセットだから高かったんだから」
「そんなもんどこで売ってんだ?」
「ネット通販」
「......なるほど」
目線がいつもより高いと思ったら、ご丁寧にハイヒールまであつらえてやがる。
ハルヒはチラシの詰まった紙袋をつかむと、
「行くわよ、みくるちゃん」
身体の前で腕を組み合わせている朝比奈さんは、助けを求めるように俺を見た。俺は朝比奈さんのバニースタイルにひたすら見とれるのみだった。
ごめん。正直、たまりません。
朝比奈さんは子供のようにぐずりながらテーブルにしがみついていたが、そこはハルヒのバカ力にかなうはずもなく、間もなく小さな悲鳴と共に引きずるように連れ去られ、二人のバニーは部屋から姿を消した。罪悪感にさいなまれつつ俺は力無く座ろうとして、
「それ」
長門有希が床を差していた。目をやるとそこには乱雑に脱ぎ散らかされた二組のセーラー服と......あれはブラジャーか?
ショートカットの眼鏡女は黙りこくったまま指先をハンガーラックへと向け、そうしてもう用はすんだと言わんばかりに読書に戻る。
お前がやってくれよ。
ため息交じりで俺は女どもの制服を拾い上げてハンガーに、げっ、まだ体温が残ってるよ。生々しー。
三十分後、よれよれになった朝比奈さんが戻ってきた。うわぁ、本物のウサギみたいに目が赤いやあ、なんて言っている場合じゃないな。慌てて俺は椅子を譲り、朝比奈さんはいつかみたいにテーブルに突っ伏して形のいい肩甲骨を揺らし始めた。着替える気力もないらしい。背中が半ば以上も開いているから目のやり場に困る。俺はブレザーを脱いで震える白い背にかけてやった。めそめそ泣く少女とノーリアクションの読書好き。困惑する腰抜け野郎(俺のこった)が雰囲気最悪の一室で無言のまますごす時間......。遠くで鳴っているブラバンのへたくそなラッパと野球部の不明瞭な怒鳴り声がやけによく聞こえた。
俺が今日の晩飯は何だろうなとかどうでもいいようなことを考え出した頃になって、ようやくハルヒが勇ましく帰還した。第一声、
「腹立つーっ! なんなの、あのバカ教師ども、邪魔なのよ、邪魔っ!」
バニー姿で怒っていた。だいたい何が起こったのか解る気がするが、一応訊いてみよう。
「何か問題でもあったのか」
「問題外よ! まだ半分しかビラまいてないのに教師が走ってきて、やめろとか言うのよ! 何様よ!」
お前がな。バニーガールが二人して学校の門でチラシ配ってたら教師じゃなくても飛んでくるってーの。
「みくるちゃんはワンワン泣き出すし、あたしは生活指導室に連行されるし、ハンドボールバカの岡部も来るし」
生活指導担当の教師も岡部担任もさぞかし目が泳いでいたことだろう。
「とにかく腹立つ! 今日はこれで終わり、終了!」
やおらウサミミをむしりとったハルヒはそれを床に叩きつけると、バニーの制服を脱ごうとし、俺は走って部室を後にした。
「いつまで泣いてんの! ほら、ちゃちゃと立って着替える!」
廊下の壁にもたれて二人の着替えが終わるのを待つ。露出狂というわけではなく、ハルヒは自分たちの半裸姿が男にどういう影響を与えるかがまったく理解できていないのだろう。バニーガールのコスプレも扇情的なところに着目したからではなく、単に目立つからに違いない。
まともな恋愛が出来ないはずである。
少しは男の、少なくとも俺の目くらいは気にかけて欲しいものだ。気疲れすることこの上ない。朝比奈さんのためにも、そう願わずにはいられない。それにしても......長門も少しは何か言ってくれよ。
やがて部室から出てきた朝比奈さんは滑り止めすら引っかからずすべての受験に失敗した直後の三浪生のような顔になっていた。かける言葉が見つからないので黙っていたら、
「キョンくん......」
深海に沈んだ豪華客船から発せられる亡霊のような声が、
「......私がお嫁に行けなくなるようなことがあったら、もらってくれますか......?」
何と言うべきか。って言うか、あなたも俺をその名で呼ぶのですか。
朝比奈さんは油の切れたロボットの動きでブレザーを返した。胸に飛び込んで泣いてくれたりするのかなと不埒なことを一瞬考えたのだが、彼女は古くなった青葉のようにひしゃげきった面持ちで歩き去った。
ちょっと残念。
次の日、朝比奈さんは学校を休んだ。
すでに校内に轟いていた涼宮ハルヒの名は、バニー騒ぎのおかげで有名を超越して全校生徒の常識にまでなっていた。それは構わない。ハルヒの奇行が全校に知れ渡ろうがどうしようが俺の知ったことではない。
問題は涼宮ハルヒのオプションとして朝比奈みくるという名前が囁かれることになったことと、周囲の奇異を見る目が俺にまで向いているような気がすることである。
「キョンよぉ......いよいよもって、お前は涼宮と愉快な仲間たちの一員になっちまったんだな......」
休み時間、谷口が憐れみすら感じられる口調で言った。
「涼宮にまさか仲間が出来るとはな......。やっぱ世間は広いや」
うるさい。
「ほんと、昨日はビックリしたよ。帰り際にバニーガールに会うなんて、夢でも見ているのかと思う前に自分の正気を疑ったもんね」
こちらは国木田。見覚えのある藁半紙をヒラヒラさせて、
「このSOS団って何なの? 何するとこ、それ」
ハルヒに訊いてくれ。俺は知らん。知りたくもない。仮に知っていたとしても言いたくない。
「不思議なことを教えろって書いてあるけど、具体的に何を指すの? そんで普通じゃダメって、よく解らないんだけど」
朝倉涼子までやって来た。
「面白いことしているみたいね、あなたたち。でも公序良俗に反することはやめておいたほうがいいよ。あれはちょっとやりすぎだと思うな」
俺も休めばよかった。
ハルヒはまだ怒っていた。ビラ配りを途中で邪魔された怒りもさることながら、今日の放課後になってもまるっきりSOS団宛のメールが届かなかったからである。一つ二つは悪戯メールが来るんじゃないかと思っていたのだが世間は思いのほか常識的であった。おおかた皆、ハルヒに関わると面倒くさいことになりそうだと考えたに違いない。
空っぽのメールボックスを眉根を寄せて睨みながらハルヒは光学マウスを振り回した。
「なんで一つも来ないのよ!」
「まあ昨日の今日だし。人に話すのもためらうほどのすげえ謎体験なのかもしれんし、こんな胡散臭い団を信用する気になれないだけかもしれん」
俺は気休めを言ってやる。本当はだな、
何か不思議な謎ありませんか。はい、あります。おお素晴らしい、私に教えてください。解りました、実は......
なんてことになるわけないだろ。いいか、ハルヒ。そんなもんはマンガか小説の物語の中にしかないんだ。現実はもっとシビアでシリアスなんだよ。県立高校の一角で世界が終わってしまうような陰謀が進行中とか、人間外の生命体が閑静な住宅地を徘徊してるとか、裏山に宇宙船が埋まってるとか、ないないない、絶対ないって。解るよな? お前も本当は理解してるんだろ? ただもやもやしたりやり場のない若さゆえのイラダチがお前を突き抜けた行動に導いているだけだよな。いいかげん目を覚まして、誰か格好のいい男でも捕まえて一緒に下校したり日曜日に映画行ったりしてろよ。それか運動部にでも入って思いっきり暴れてろ。お前なら即レギュラーで活躍出来るさ。
......と、もっともらしく説いてやりたいのだが多分五行くらい話したあたりで鉄拳が飛んでくるような予感がしたのでやめておいた。
「みくるちゃんは今日は休み?」
「もう二度と来ないかもな。可哀想に、トラウマにならなければいいのだが」
「せっかく新しい衣装を用意したのに」
「自分で着ろよ」
「もちろんあたしも着るわよ。でも、みくるちゃんがいないとつまんない」
長門有希は例によって希薄な存在感とともにテーブルと一体化していた。別に朝比奈さんにこだわらず長門を着せ替え人形にすればいいのに。ってのもあまりよくないが、それでも泣き虫の朝比奈さんと違って長門は言われたとおりに淡々とバニーガールの衣装を身につけるような気がするし、それはそれで見てみたいような気もする。
待望の転校生がやって来た。
朝のホームルーム前のわずかな時間に俺はそれをハルヒから聞かされた。
「すごいと思わない? 本当に来たわよ!」
欲しがっていたオモヤチャを念願かなって買ってもらえた幼稚園児のような飛びっきりの笑顔でハルヒは机から身を乗り出していた。
いったいどこで聞きつけてきたのか知らないが、その転校生は今日から一年九組に転入するのだと言う。
「またとないチャンスね。同じクラスじゃないのは残念だけど謎の転校生よ。間違いない」
会ってもいないのにどうして謎だと解る。
「前にも言ったじゃないの。こんな中途半端な時期に転校してくる生徒は、もう高確率で謎の転校生なのよ!」
その統計はいつ誰がどうやって取ったんだ。そっちのほうが謎だ。
五月の中旬に転校することになった学生はすべからず謎的存在なのだとしたら、日本全国には謎の転校生がたくさんいるんじゃないかと思うぞ。
しかし独自の涼宮ハルヒ理論はそんな普遍的な常識の追随を許可したりはしないのである。一限が終了すると同時にハルヒはすっ飛んで行った。謎の転校生にお目通りしに九組へと向かったのだろう。
果たしてチャイムギリギリ、ハルヒは何やら複雑な顔つきで戻ってきた。
「謎っぽかった?」
「うーん......あんまり謎な感じはしなかったなあ」
当たり前だ。
「ちょっと話してみたけど、でもまだ情報不足ね。普通人の仮面をかぶっているだけかもしれないし、どっちかって言うとその可能性のほうが高いわ。転校初日から正体を現す転校生もいないだろうし。次の休み時間にも尋問してみる」
尋問ねえ。九組の奴らも驚いただろう。俺は想像する。自分から誰かに話しかけるなどほぼ皆無のハルヒが、いきなり自分たちの教室に踏み込んで手近な奴を捕まえ「転校生はどいつ?」とか訊いて答えを聞くや否やそっちへと突進し、おそらく親交を深めるべく団欒中の会話の輪へと突進し、その輪を突き崩して中心部へ侵入、驚く転校生に詰め寄って「どこから来たの? あんた何者?」などと詰問する様を。
ふと思いつく。
「男? 女?」
「変装している可能性もあるけど、一応、男に見えたわね」
じゃあ男なんだろ。
てことは、SOS団にやっと俺以外の男子生徒が増えるということでもある。その男子は、ただ転校してきたというだけの理由で、有無を言わさず入団させられるのだ。しかしそいつが俺や朝比奈さんのようなお人好しとは限らない。そう上手くことが運ぶものだろうか。いくらハルヒが強引極まろうとも、もっと意思の強い人間ならば拒否しおおせるのではないだろうか。
員数が揃ってしまえば本当に「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」なるバカげた同好会を作らんといかんようになるではないか。学校サイドが認めるかどうかはさておいて、そのために走り回ることになるのは十中八九、俺だろう。そして俺は「涼宮ハルヒの手下」という称号を手に入れてこの三年間を後ろ指差されて過ごすことになるのである。
卒業後のことを具体的に考えているわけではないが漠然と大学には行きたいので、あまり内申に響くような行動は慎みたいのだが、ハルヒといる限りその望みは叶いそうもない。
どうしたものだろう。
どうもこうもない。
俺は羽交い締めにしてでもハルヒを制止してSOS団を解散させるべきだったのだ。
それからハルヒをこんこんと説得し、まともな高校生活を送らせるべきだったのだ。
宇宙人や未来人や超能力者なんざ、まるっと無視して適当な男を見つけて恋愛に精を出したり運動部で身体を動かしたり、そういうふうな凡庸たる一生徒として三年間を過ごさせるべきだったのだ。
そう出来たらどんなによかっただろう。
俺にもっと絶対的な意思力と行動力があれば、涼宮ハルヒという急流に流されるまま奇妙な海へ泳ぎ着くこともなかっただろう。なべて世はこともなく、俺たちは普通に三年間を過ごして普通に卒業したに違いない。
......多分な。
今、俺がこんなことを言うのも、つまり全然普通ではないことが実際に俺の身の上に降りかかったからであるのは、この話の流れからして、もうお解りだろう。
どこから話そうか。
まずその転校生が部室に来たあたりからかな。